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退院で家での生活立て直し [日常生活]

入院治療は膿化した胸水の排出を目的としたものだ。粘度が高いからチューブ挿入だけでは出てこないと懸念されたがドレン量が予想以上だったので、膿の粘度を下げる薬剤を注入することになった。結果としてさらに多くの膿をドレンするすることが出来た。注入・排出を繰り返して行けばよい。3回目の注入後、ドレン駅に血液が混じってきた。炎症個所を洗い流した結果だが、炎症を広げる恐れがあるので薬剤投入は中止した。それでも膿の排出は続き、結果的には1リットル以上の胸水を抜き取る事が出来た。治療は8割がた成功したと言える。

チューブを抜き、あとは自力で胸水状態の回復を図るということだ。胸水に圧迫されて肺が委縮しており回復には時間がかかる。入院して5週間、やっと家に戻れることになった。しかし、なぜ胸水が溜まるようになったのかはわからない。根本原因が不明なまま自力での回復がどれだけ期待できるのか心もとない。再発ということも十分考えられる。それでも、今回の入院で、少なくとも再発に対する対処の方法があることがわかったから、少し安心だ。

もともと身動きは容易で なかったのだが、一ヶ月以上の寝たきり生活で筋力は、自分で思っているよりもさらに低下していた。車椅子から車に乗り移るのに失敗して転げてしまうし、車から家には3人がかりで運んでもらう始末だった。しかし、呼吸は楽になったし、座っているのが苦痛でなくなったから、もはや寝たきりではない。立ち上がりには苦労するのだが、身動き能力は日に日に進歩している。少しだが伝い歩きも出来るようになってきた。

家に戻りはしたが、以前の生活にそのまま戻るというわけには行かない。一番大きいのはやはり娘を亡くしたことだ。毎日のように訪ねて来てくれて、世話を焼いてくれていたし、心の支えにもなっていた。今も下手に目を瞑ると涙が湧いてきてしまう。娘が亡くなったことで、もう一つ失ったものがある。それは孫たちとの緊密なつながりだ。孫たちの様子は娘が時々刻々と伝えてくれていた。今はそれが無くなった。週末に家族で外出したら、孫たちを連れて我が家に立ち寄ってくれていた。今はそれがない。僕らにとっては少し寂しいことだ。

母親を亡くした子供たちを抱え、必死で生活しようとしている父親に余裕はない。父親の実家からおばあちゃんがやってきて、家事や孫たちの面倒を見ることになったようだ。「内孫」に対する責任感から実家の暮らしを犠牲にしても遠くから来て奮闘しているおばあちゃんには感謝すべきだろう。確かに僕たちにとっては「外孫」になる。しかし、この子たちは実にいい子で可愛い。多少身を引いた位置でもいいから孫たちの成長を支援して行きたいというのが僕らの願いだ。

連れ合いはおいしいマフィンの焼き方研究に余念がない。孫たちを引き付けようとしているに違いない。僕の方はもう少し自由に歩けるようになることが第一の課題だ。今のままでは孫の相手をすることも出来ない。リハビリを頑張るしかないだろう。悲しいかな連れ合いのように孫を引き付ける手立てがない。せいぜいルービックキューブを解いて見せるくらいの事だ。あれやこれや、退院で新たな生活の立て直しが始まっている。

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この死だけはどうしても受け入れられない [日常日記]

娘が亡くなった。
明るい陽ざしの中を、周り一面に、笑顔を振りまいて、
トパーズ色の風と共に駆け抜けて行ってしまった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


僕らに親として生きる事の幸せを教えてくれた。
素直で優しく、何事も一生懸命に取り組む素晴らしい子だった。
運動音痴の僕とは違い、体力にも恵まれていて駆けっこも早かった。
心身ともに健康とはお前のためにあるような言葉だった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

小さい時から器量が良かった。
周りの人が振り向いて、可愛いねと声をかけてくれる度に僕は鼻高々だった。
イリノイの古い田舎町に住んだ時、
初めてのアジア人に対する冷たい視線が
暖かく変わったのはお前の笑顔があったからこそだ。
「日本人の子はきれいだね」とあちこちで聞いた。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

せっかくの勉強がもったいないなと思ったけど、
結婚して素晴らしい孫たちを生んでくれた。
孫たちはお前と同じように元気で優しい。
楽しそうに学校に行き、しっかりと勉強もする孫たちに目を細め、
母親としてのお前に満足感を持った。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

子育て10年の後に、また働きたいと言い出した。
社会人公募の採用でいきなり最年少の課長補佐だよ。
見事な復帰の仕方だった。
活躍を新聞などで見るたびに切り抜いたりして楽しんだよ。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

僕の体調が悪くなり、連れ合いが入院した時も毎日、往復60㎞をいとわず来てくれた。
僕の病院通いはお前に助けられてのものだった。
病院のスタッフによくやる娘さんだねと言われるたびに、ぼくも嬉しかった。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。

乳がんが全身骨転移、肝臓に、さらに脳髄に。
元気そうに見えたけど本当は僕よりずっと重体だった。
ぼくと同じ日に入院したのだが、あっという間だった。
最後は、まただれもが癒されるあの笑顔を思わせる安らかな顔になったという。
そうさ、お前は僕の自慢のむすめだったさ。


「先に逝くなんて私は親不孝だね」
そんなことがあるものか。お前は何一つ悪くない。
幸せに生きるあらゆる要素を準備してきたたお前が、
なぜ41年で人生を中断しなければならないのだ。
僕はこの死を、どうしても、どうしても受け入れられない。
悪い夢だ。悪い夢に違いない。

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体調はなかなか戻らず入院に [療養]

退院して一ヶ月。連れ合いの体調回復は目覚ましい。幹細胞移植の効果は歴然で、現在、無治療で過ごしている。一時僕が担ったはずの家事一切は再び彼女の手中に収まってしまった。それにひきかえ僕の方はますます元気がない。発熱があり食欲はなく殆ど何も食べられない。かつて83㎏だった体重は53㎏まで減った。

難航した階段昇降機の設置が出来て、伝い歩きさえできれば家の中では不自由しないはずだったが、座っているだけでも辛くて、一日中寝て過ごすことになった。まさに寝たきり老人だ。PCを開く元気もなくブログの更新も滞ったままが続いた。

この状態では病院通いもままならない。病院から帰って来て車庫から玄関までの数メートルでガクッと膝が崩れて地面に転げてしまう事があった。こうなると立ち上がりが大変で連れ合いだけではどうにもならない。ご近所の人に助けてもらってやっと家に引きずり込んでもらうことが出来た

病院に行っても、車椅子で外来で待っているのが苦しい。たまらず、寝かせてくれと頼んだら処置室のベッドで診察になった。明日も外来があるのだけど来るのが大変だと訴えたら緊急入院させてくれることになった。頼んでは見るものだ。普通は入院が決まってもベッド予約は1週間ほどもかかる。

入院して何をするかと言うと膿胸のドレンだ。胸膜の隙間にチューブを差し込んで膿を抜き出す。ただの胸水ではないからドロッとしていて簡単には出てこない。癒着があってセグメントに分かれていればセグメント毎にやらなければならない。気胸が発生するリスクは極めて高くなる。

先生方も悩んだようで一週間は外科と内科の協議で費やした。外科的には全身麻酔でカテーテルを入れて、癒着を剥ぎながら炎症部分に薬剤を注入するのが効果的だ。しかし内科的には全身麻酔はそのまま目が覚めなくなるという危険を考慮しなければならない。僕の体は何かのきっかけですぐに崩壊するような状態だ。

まずは局部麻酔でチューブを入れて見ることに落ち着いた。意外に多量の膿が出たので、薬剤を注入して炎症を止める事になった。うまく行けばこれの繰り返しで癒着が取れてさらに膿が出せる範囲が広がる。

膿胸は1.5リットルほどの溜まりがあると見積もられているのだが4日間かけて300㏄出せた。すでに効果は出ていて熱が下がり、食べられるようにもなり、こうしてブログの書き込みも出来るようになった。しかし胸膜がきれいになるのはまだまだこの先大変なようだ。しかし実は本当に大変なのは僕ではなく娘の病状だ。僕と同じ日に別の病院に入院したのだが状況は芳しくない。

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夏空を見上げて口にかき氷 [懐かしい物]

気温が上がってきている。もうじき夏がやって来る。しかし、まだエアコンは点けていない。もう少し自然の空気の中に身を置いて人工的でない環境を味わいたいからだ。窓から入って来る風の心地よさを感じたい。

しかし、暑い。連れ合いが冷蔵庫から取り出した小豆アイスを渡してくれた。なんという贅沢だろうか。子供の頃アイスを食べるのはそう簡単なものではなかった。汗をかきかきアイスキャンデー屋に買いに行かなければならなかった。僕の町には一軒だけアイスキャンデー屋があった。

店先には、大きな箱状のアイスキャンデー機があり、その横でベルトドライブのコンプレッサーがガタガタ揺れていた。まだアンモニア冷凍機の時代だ。時々アイスキャンデー屋で爆発事故があった。アイスキャンデー作りは命がけの仕事だったのである。

八連くらいのブリキの容器に汁と棒を入れてしばらく箱の中に入れておくとアイスキャンデーができる。取り出してひっくり返すとアイスキャンデーがバラバラと落ちてくる。僕は店先に立ってその一部始終を飽きず繰り返し眺めていた。アイスキャンデーはめったに買ってもらえるものではなかったから「見るだけ」のことが多かったのである。

アイスキャンデーよりも一般的だったのは、かき氷だっただろう。「氷」の旗がぶら下がっている店で、氷の塊を回転させて削る。かき氷にありつこうと、テストの点数をアピールしたり、自発的にお手伝いをしたり、涙ぐましい努力をしたものだ。どの店にも冷凍庫はなかったから氷は専門店から調達していた。大きな氷を鋸で切って小売する店だ。一般家庭にも配達してくれて、世の中が少し豊かになった頃にはなるが、我が家に氷冷蔵庫が入った。何のことはない断熱箱の上部に氷を入れておくと庫内の温度が少しが冷えるというだけのものだ。

嬉しいのはこの冷蔵庫には常に氷の塊があり、これで「かき氷」を作れることだった。削りカスの溜がついたカンナのようなもので削る。お店のかき氷のようにふわふわしたものは出来ず、ザラメ雪のようなものだったが、いちごシロップを掛けると冷たさのなかに甘いかおりがして最高の楽ししみとなった。だからせっせとカンナ掛けをした。

最近は、かき氷のお店が見当たらない。カフェなどにあるのはクリームやチョコレートで飾ったおしゃれなもので、これは断じてかき氷ではない。あの夏の日のかき氷が無性に恋しくなったのだが、それは暑さをものともせず走り回っていた元気な自分への憧憬でもある。

調べてみると家庭用の電動かき氷機と言うのがある。うまく刃先を調整すれば、本物のふわふわしたかき氷が作れるらしい。思わず通販のボタンを押してしまった。どんなものが出来るのか、のちほど後記を書くつもりだ。
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あの時代僕にはどんな生き方が [日常日記]

人間は歴史の制約の中で生きている。大谷翔平がいくら優れた選手であっても野球のない時代に生まれたら活躍の仕様がない。僕が科学者としてやって来たささやかなことも、丁度、エレクトロニクスが発展し、コンピュータが使われだした時代に生まれたからこそである。

僕がもう少し早く、親の時代に生まれていたらどんな生き方があっただろうか。戦争の最中だ。戦死していた確率が高い。天皇陛下バンザイを叫んで死ぬほど単純ではなかっただろうと思う。しかし、この戦争が勝ち目のない馬鹿馬鹿しいものだと見抜くことが出来ただろうか。

アメリカは日本の10倍の国力があるから勝てるわけがないと思った人はいるようだが、これは説得力がなかった。日清戦争も日露戦争も10倍の国力を持つ相手と戦って勝ったのである。戦争は国力ではなく戦闘意欲であり、日本には大和魂があると言われればそれまでだ。

戦闘意欲の根源になっていたのは「満州は日本の生命線」と言う考え方だ。日本には全く資源がなく、満州を取らないことには生きて行けない。中国には満州の資源を有効利用する能力がないから日本が変わって支配する。それがアジアを発展させる道だという大東亜共栄圏構想だった。

これには説得力があった。資源がなければどうにもならない。当時、これに反論した人は誰もいない。僕も引き込まれていたのではないだろうか。戦争の良し悪しではなく勝ち負けでもなく、これ以外に日本に生き残る道がないとすれば、そのために命を捨てることもやむを得ないと思ったかも知れない。

今から思えば「満州は日本の生命線」が間違っていた。この事はもっと協調されるべきだ。資源はなくとも経済発展が出来た。高度経済成長は資源を輸入して達成されたのである。侵略戦争で犠牲を払う必要はなかった。だが、それを見抜いた人は誰もいなかった。人は歴史の制約で生きていたのである。

満州を取ろうとすれば当然中国は抵抗する。国際世論は中国の味方であり。中国を支援するアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。ここまで来れば、おそらく僕も不味いことになっているとは感じただろう。さりとて「満州は日本の生命線」を否定することも出来ず、他の多くの人たちと同じように、消極的に戦争にのめりこんで行ったのではないだろうか。

戦争では1000万人のアジア人を殺し300万人の日本人が死んだ。戦死というがその実態は戦闘ではない。徴兵されて南方に移送される途中で、すし詰めの輸送船が沈んで死んだ人が多い。現地についても栄養不足と過労だから病気にならないのがおかしい。日清戦争でさえ80%が戦病死している。体力があって病気にならなくとも、砲撃・爆撃は激しく、多くは支給された銃を一発も打つ前にで死んだ。餓死もある。特攻隊も1298機もが出撃して沈めた船は数隻だ。殆どが敵艦に近づく前に撃ち落とされて結果的には単なる自殺でしかなかった。勇ましい戦死などどこにもなかったのである。

僕があの時代に生きていたら、おそらく、つまらない死に方から逃れる道はなかっただろう。捕虜になって生き延びることを考えたかも知れない。実際、そういう人もいたが、敵前逃亡は死刑だ。見つかれば日本軍から撃たれた。手を挙げて出て行っても日本軍を憎むゲリラ兵に撃たれた。負傷で気を失って気が付いたら捕虜になっていたと言うのが一番幸運な人だ。普通は負傷すれば、さらに生き延びにくい。友軍に迷惑をかけることになるから自決と言う場合も多かった。

僕の父親は、片足が動かぬ障害者だったので丙種不合格となり、徴兵されていない。しかし同級生の多くは軍医として出征して死んでいる。随分と肩身がせまい思いをしたそうだが、そのおかげで今日の僕がある。戦争は二度とやってはならないことだ。憲法を変えて戦争が出来るようにするなどとんでもない。誰もがやむを得ない犠牲だと思った戦争が、実は意味がない馬鹿馬鹿しいものだった。この歴史の教訓に学ばずしてなんとするのだ。
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