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能登北陸(1) 飛騨高山の山車と陣屋 [能登北陸]

10月の連休に能登北陸を旅行することを思いついた。子供たちがまだ小さかった頃に、能登半島一周を目指したことがある。当時まだ高速道路はなく、夏休みの海水浴シーズンだったので、能登の狭い道はどこも渋滞して、進めず、結局、輪島までで引き返してしまった。いつかリベンジしなくてはならないと思っていた。

体調も万全ではなく、まだ時々、ひどい目まいがする。しかし、僕に残された時間はそう長くない。病気を抱えた身の寿命もそうだが、旅行に出かけるだけの気力・体力がある時間は、さらに限られているのだ。能登に行く経路を調べていて、飛騨高山の祭りが、土日ではなく、金曜、土曜にあることに気がついた。木曜日はまだ連休が始まっていないから、今からでも宿が取れるかもしれない。毎度のことながら、自分の計画性のなさにあきれる。木曜日とは明後日のことだ。

検索すると、祭礼の行われる神社近くに民宿があり、残り部屋数1になっていた。即座に申し込んで、連れ合いに、明後日行こうよと話を持ちかける。例によって、激怒する。「だれが準備すると思ってるの。間に合いません。」。高山までは250kmもあるから、本当は、明日出発したいのだが、明日は病院の予約が入っている。病院が終わってからの出発はどうだろうと言っては見たが、これは拒否された。明日出発を言い出すことで、明後日出発が、余裕のある計画に見えるだろうという作戦だ。

朝一番で酸素ボンベとpocを積み込んで出発し、ひたすら走る一日だった。着いたのは高山の民宿「岩田屋」だ。町中の安い民宿だから、期待はしてなかったのだが、結果的にはかなり高い評価になった。こじんまりとした民宿で、部屋も広くなく、トイレは共用だ。建物も新しいものではない。しかし、掃除はきれいに行き届いており清潔感があった。壁紙や畳は取り替えられており、廊下の生花など細々とした配慮に「やる気」が感じられる民宿だった。料理も、高級なものではないのだが、味付けや、盛り付けの演出に工夫が感じられる。温泉であり、岩風呂があるのだが、大きなものではない。しかし、落ち着いた感じがするいい岩風呂だったと思う。

一つ誤算だったのは、八幡神社に近すぎたということだ。祭礼が始まるとこの民宿の周りは、「引きまわし」の範囲となり、車の通行が禁止される。翌日、車を置いたまま祭り見物をする目算が外れた。12時までに退出しなければならない。朝行なわれる「引き揃え」を見ることにした。10基の山車が一堂に集められる。まあ、これだけ見れば十分だ。それぞれの山車の動きも見られるから、「引きまわし」も同じことだ。「からくり奉納」は、12時からだから見られない。しかし、秋の祭礼では「からくり奉納」をするのは一基だけで、これに全ての人が集中するから、どうせ「よく見る」などということは期待できない。

山車は、祇園祭の鉾に似ているが、作り変えが行われているから、そう古いものではない。作り変えのおかげで、「からくり」などの工夫が重ねられたのだと思う。大きな山車だが、意外と少人数で運転される。大きな車輪があるからだ。今も伝統を守った行事が、10台以上もで行えているのは、熱意もさることながら、10人ばかりで動かせるということが大きいと思う。どこでも御神輿の維持は大変だ。

「引き揃え」のあと、それぞれの山車をゆっくり見て、高山陣屋を見に行くことにした。古い町並みの近くにあり、天領である高山を治める郡代の居たところだ。1777年から使われ、現在の建物は1816年に建てられたものだ。明治維新後も、県の庁舎として使われ、1968年までそれが続いたというのだから驚く。高山は戦災にあっていない。屋根が「くれ葺き」だということも面白い。薄い板を10cmほどにも重ねている。この薄板を木材を割って作る。よくできるものだ。

高山が天領であったことで、明治維新はごたついた。幕府郡代に替わって、高山県県令になったのが、27歳の梅村速水だったのだが、新しい政治のためには金が要るということで、富札を発行したり、運上金として、商売に課税したため、一揆が起こった。明治政府は梅村を切り捨てることで事態を収拾した。梅村は罷免され、収監されて、未決のまま獄死した。明治2年のことである。

江戸幕府の天領という存在、そして明治維新のごたついた側面、そういったことを学んぶことが出来た。陣屋の門前では朝市が行われており、新鮮なくだものを手にいれることができた。しかも安い!

高山の山車を見上げる空高く、ひとすじの雲、秋を想わす



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能登北陸(2) 合掌造りの村 [能登北陸]

高山を出て向かった先は白川郷、合掌造りの村を見たい。昔は秘境と言われ、容易にいける場所ではなかったのだが、今では高速道路が通じている。この高速道路は、トンネルばかりで、全く景色はみえない地下通路といったほうがいい。それだけ山が険しいということだろう。

合掌造りの特徴は、急勾配の大きな藁葺きの屋根にある。大昔の竪穴式住居を大きくすれば、順当な発展形と言える。釘やホゾ組などを使わず、縛って骨組みを作ろうとすれば、三角形が力学的には一番強固だ。日本では、こういった建物が、むしろ普通だったのではないだろうか。建築技術が発達して、使い勝手が良い四角な建物に変わっていった。白川の合掌造りも一階部分は柱を使った普通の建築になっている。

白川や五個山に大きな合掌造りが残った理由は、大雪と大家族制だろう。耕地面積は少なかったから貧しく、大家族制が生まれた。長男だけが結婚し、多くの部屋住みを抱える。必然的に家屋は少し大型化する。貧困な村が発展したのは、養蚕が行われるようになったからだ。合掌造りの2階3階4階は養蚕の蚕棚に適している。さらに広い床下の日陰は煙硝生産に適していることもわかった。こうして合掌造りが大型化したのだろう。人里離れた場所にはあったが、白川や五個山は、他の日本の村々に比べて貧困なものではなかった。立派な合掌造りが、発達したのはその結果だ。

残念なのは、こうした家々がほとんど民宿やみやげ物店に使われていることだ。宣伝看板が大きく出ているのは興ざめする。しかし、狭い耕地で、農業だけで生活するのは無理だから、住民のこうした生業を否定することも出来ない。ウイリアムズバーグのように、住民には給料を払って、農村生活をしてもらうような配慮ができないものだろうか。この点では、五個山のほうが、規模は小さいのだが雰囲気は良い。白川は観光客が多すぎる。

歩き回って疲れた。白川の川べりで飲んだコーヒーが実に美味しかった。僕は旅行に「アルポット」を持ち歩く。アルコールランプ内臓の湯沸しポットだ。火が見えないから、人目を気にせず、どこででも気兼ねなくお湯がわかせる。良い景色を見たとき、ここでコーヒーを飲みたいという気持ちを抑えられない人にはお勧めだ。ファネルやコーヒー豆もいるから少しかさばるが、車に積んでおけば問題はない。

この日は国民宿舎に泊まった。一応の設備は整っているが、思い入れが感じられない。たとえば岩風呂だ。確かに大きく広い湯船なのだが、コンクリートに岩を埋め込んでいるのが丸見えだ。昨日の民宿では、岩だけで作られているような造作になっていた。料理も、品数やメニューの上では立派なものだが、味はおざなりだった。値段は民宿より高いのだから、存在意義を疑う。民営化すれば良いというものでもない。大手チェーンの経営なら、従業員を安くこき使うだけで終わる。小さな、思い入れを持った経営と言うのが大切なのではないだろうか。

無理しても歩きたくなる野の小径、合掌造りと川のせせらぎ



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能登北陸(3) 現代アートとからくり [能登北陸]

五個山に泊まって、相倉の集落を散策したあと向かったのは金沢の町だ。北陸新幹線ができて賑わっていると言うことだが、あやしいと思う。今までの前例から見て、交通の便が良くなることは、必ずしも町の発展と結びつかない。一泊の出張が日帰りになるし、支社の維持が不要になったりもする。

金沢は小京都などと言って、日本的な文化を残す街として知られている。武家屋敷など趣がある町並みも多い。しかし、所詮は京都の亜流であり、独自の文化ではない。僕は京都の旧家の生まれだから、まね事文化に厳しいのかも知れない。兼六園も水前寺とか栗林とかに比べて格段の良さを持っているとは思われない。冬ならば雪景色が素晴らしいとも言えるが、今はその季節ではない。

こういった定番名所は止めて、別の視点を試みることにした。「21世紀美術館」というのが評判が良い。現代アートが古い町の中心街にあること自体に興味もある。行って見ると、かなり規模の大きな施設だった。ガラス張りで、どこからでも入れるようになっており、敷居を低くする工夫がされている。単に美術館であるだけでなく、交流ゾーンと称していろんなイベント企画をやっているようだ。

建物自体が面白い作りなのだが、中に入るのは自由にできる。一画が受付になっており、そこから先は入場料がいる。この先に何があるのだろうかと気になる仕掛けだ。入場料は二段に分かれており、360円の券と1000円の券がある。1000円部分はなかなかの作品が集められているが、360円部分は駄作が多い。値段設定は、公共の美術館としてはかなり高い。駐車料も1時間150円だから馬鹿にならない。ビジネス感覚の美術館だ。

県庁の跡地の活用だが、考えてみれば当然とも言える。これだけの広さなら単なるイベントホールと言うわけにも行かない。博物館や古典美術は収集も難しい。まさか公営のショッピングセンターと言うわけにも行かないだろう。

めまいの症状に悩まされながらも、一応楽しんで見ることができた。僕のめまいは、立ち上がってしばらくすると起こり、大体五分位持ちこたえれば収まって行く。慣れてきたから対処はできる。

次に行ったのは「大野からくり記念館」と言う所だ。高山でからくりを見損ねたからというわけもある。なぜ「大野」がついているかというと、金沢で活躍した大野弁吉というからくり師を顕彰することで出来たからだ。茶運び人形などの作品があり、弁吉が優れたからくり師であったことがわかる。測量学や数学にも長けていたとされており、平賀源内と並んでエレキテルを作ったことから、広い科学知識をも持っていたことがわかる。

しかし、茶運び人形などの作品は、1796年に細川直頼が書いた「機構図彙」によったものであり、弁吉の独創ではない。こういったからくり師は全国にいて、茨城では飯塚伊賀七が知られている。伊賀七の場合、茶運び人形は、「機構図彙」以前のものだし、エレキテルも作っている。いずれにしても、こういった機械仕掛けは面白い。パズルや知恵の輪、仕掛け箱などもたくさん置いてあって随分楽しめた。

今回の試して見たのはタブレットを使うことだ。ナビは行き先が決まれば案内してくれる便利なものだが、行き先を考えるのには適していない。少し範囲を広げると道しか見えなくなるからだ。タブレットはGPSを持っているから、グーグル地図に現在位置が示される。いろんな情報が見える地図で行き先を考える。クリックして電話番号を見つけてナビに入れれば道筋は簡単だ。市内の小さな公園で、またコーヒーを沸かしてのち、能登半島に向かった。今夜の泊まりは氷見である。

古都の中、現代アートに見いる人、それぞれの思い受けて輝け



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能登北陸(4) 能登の荒波・魚料理 [能登北陸]

氷見での宿は民宿「あお」。青かと思ったのだが阿尾だった。氷見の北にあり、加賀前田に対抗する佐々氏の阿尾城があった所だ。一泊12500円、民宿としてはかなり高い。新鮮な魚をふんだんに食べさせるグルメ民宿なのだ。僕らも抜かりはない。ご馳走に備え、お昼はサンドイッチだけですませて、腹ペコで到着した。

食卓には、サザエとイソニナが皿に乗っており、サラダと前菜の取り合わせがあった。土鍋の用意もされていた。おそらく、これに刺身が加わるのだろう。運ばれてきたのは、大きな船盛りの刺身で、なかなか食べ応えがある。新鮮でうまい。

ところが、これでは終わらなかった。「煮魚です」と持ってきたのは15センチくらいの縞鯛。これもうまかったが、そろそろ満腹だ。「焼き魚です」と、今度はベラのような魚が来た。「いや、もうお腹がいっぱいですよ、まだあるんですか」「はい、次はカニです」大きなズワイガニの丸ゆでだ。お腹が苦しいのだが、うまいから食べざるを得ない。

「タラのタタキです」勘弁してくれよ。「それでは、鍋に火をつけましょうね」鍋の中には野菜と魚の切り身がゴロゴロ。うどんまで入っている。とてもじゃないが食べられない。鍋の魚は手付かず、うどんは一本だけ食べた。「茶碗蒸し」「デザート」。翌朝も、朝から刺身。ご馳走攻めにすっかりまいってしまった。

氷見を起点に能登半島を一周する計画なのだが、実は宿が取れていない。連休のさなか、もともと能登の宿は多くないので、どこもいっぱいだ。やっと取れたのが、富山県射水のホテル。かなり駆け足で回るしかない。

能登には高速道路ができている。海岸ではなく、背骨に当たる山の中を走っている。海岸にある民宿経営者には素通りされてしまうと不評なようだ。氷見から能越自動車道で七尾に行き、「のと里山海道」と名前が変わって山の中に入ったところで降りて、西の海岸に出る。そうすると時計回りで能登半島を一周できるのだ。

ところが、ひとつ問題が起こった。車を買って3年になるから、ナビの地図更新ができなくなっている。のと里山海道はナビの中には存在しない。空中を飛んでいる軌跡が現れる。まだ全面開通していないから切れ切れで、そのつなぎが皆目わからない。引き返せだとか、とんでもない方向に行けだとかの無茶苦茶な指示を出す。道路標識がたよりなのだが、かなり道に迷ってしまった。

能登半島の外側には荒波が押し寄せている。岩肌に打ち寄せる波しぶき、削られたゴツゴツした岩肌。「義経の船隠し」とか「ヤセの断崖」とか名前のつけられた景観もたくさんある。そうでなくとも、波のある景色は飽きない。白米(しろよね)の千枚田というのも面白い。斜面に無理して小さな田をたくさん作っている。耕地のせまい能登ならでの工夫だ。加賀百万石は米の産地だが、能登は平地がない。年貢の代わりに塩を納めさせたからこの地方には塩田が出来た。塩田村では、今も揚げ浜式の製塩がある。観光用のデモではあるが、まあこれも面白い。

海水には0.9%くらいの塩分があるのだが、飽和溶解度は26%もあるのだから水分を蒸発させて食塩を取り出すのはなかなか大変だ。揚げ浜式では、砂を使って塩分を濃縮する。海水を砂に撒き、天日で少し乾かすと、それほど濃度が高くなくとも、砂の表面の突起が核になって塩が結晶化する。この砂を集めて海水で洗うと、かなり濃度の高い塩水ができる。これを煮詰めて塩を取り出す。

塩まき、砂集めなど大変な労力がいる。瀬戸内などでは、潮汐を利用して塩まきの労力をなくした。流下式といって、箒の積み重ねのような棚に海水を繰り返して流す方式は、日照だけでなく風による乾燥も使えるから効率がよい。現代では、イオン交換樹脂を使って、電気的にイオンを分離し、陰膜と陽膜の間に濃い食塩水を作るようになっている。熱で煮詰めるのではなく、気圧を下げて水分を気化させてしまう。

能登半島の先端まで行き、帰りは高速道路を使って富山に向かう。この高速道路もトンネルばかりの地下道だ。景色は、全く面白くないのだが、おかげで7時までには宿にたどり着くことが出来た。ホテルだから夕食はついていない。二人ともご馳走には辟易しており、夕食はラーメンで済ますことで一致してしまった。またもや、貧乏根性の兆しが見えてきた。

断崖に打ち寄せる波水しぶき、旅に出てきた実感を知る



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能登北陸(5) 北前船と薬売り [能登北陸]

射水を出て西に。富山で興味があるのは北前船と薬売りだ。

富山にはいくつもの廻船問屋があり、北前船の拠点でもあった。春に大阪を出て、各地で雑貨や都市製品を売りながら、瀬戸内から日本海を北上し、北海道でニシンなどの海産物を仕入れ、港々で商売をしながら秋には大阪にもどる。日本海が荒れる冬を避けて、船員たちは冬の間それぞれの実家にもどって暮らす。

大阪と江戸の間は、菱垣廻船とか樽廻船と呼ばれる航路があったが、こちらは頼まれた荷物を運ぶ運送業者だった。同様に、北前船と同じ西回り航路を行く御用米船もあったが、これも単なる運送業であった。当時の経済活動全体としては、御用米船などの運行の方が重要だったわけで、航路の開発自体は御用米船で行われた。

商売と航海を合わせて営む北前船は、一風変わった形態であり、ひとつの文化でもあった。こうした北前船との取引を仕切ったのが廻船問屋であり、北前船の船主でもあった。危険を伴うものではあったが、利幅は大きく、いくつもの豪邸が残っている。伏木の秋元家と岩瀬の森家に行って見た。

森家の方は、床にとんでもない大きさの一枚板を使うといった、金に糸目をつけぬ豪華建築に驚かされたが、船の資料は少なかった。庭に各地の大石が置いてあったが、転覆防止用に船底に積んだものだと言う事だ。やはり、安定性が和船の問題だったことがわかる。秋元家の方は、豪華さでは劣るが、船の資料も少しあった。和船から洋船への切り替わりは、明治20年頃だったようだ。弁財船も初期のものは、完全な一枚帆なのだが、後期では補助帆がついている。この発展の経過を知りたかったのだが、説明はなかった。

富山は薬売りでも有名なところだ。売薬資料館があり、 広貫堂という薬屋さんが今もあるから行ってみた。なぜ富山で売薬が盛んになったかと言えば、加賀藩から分藩した富山藩が財政困窮のため産業振興を考えたうちのひとつだったからだ。薬は軽量で利幅が大きく全国行商に適している。「他領商売勝手」を発行して薬売りを奨励したのだ。代表的な薬は、反魂丹とか万金丹だが、いろんな生薬を配合した万能薬だったから、薬事法が定められてからは販売できなくなっている。広貫堂も現在は生薬を中心とした製薬会社だ。

富山の売薬は、置き薬として1960年代まで、かなり盛んに行われていた。生薬だけでなく、医学薬なども各家庭に常備薬として置いておき、定期的に訪問して使っただけ料金を取る。連れ合いは九州の田舎の出身だから、実際に置き薬の世話になったと言う。重ね行李を風呂敷に包んで、回ってくる薬屋さんに紙風船などのお土産をもらうのが楽しみだったそうだ。展示を見ながらしきりに懐かしがっていた。僕のほうは、友達の家で見たような気がするが、使った覚えがない。さすがに医者の家には来なかったようだ。

小雨が降り出したのだが、最後に、富岩運河環水公園というのに行ってみた。運河の船溜りを近代的な公園に改装したもので、デザイン的に評判が高い。確かに、すっきりとまとまった、なかなかの景観に仕上がっている。一番よい場所にスターバックスがあり、人気が高いということだ。僕らが行った時にも、公園には人影がまばらなのに、スターバックスは一杯だった。スタバ公園とでも改名したほうが良いだろう。

富山をあとにして、長野に向かう。今夜の宿は駅前のビジネスホテルだ。ビジネスホテルには「エコノミーダブル」というカテゴリーがあって、2人で泊まっても一人分の料金だから格安になる。奇妙なもので、人々は一泊二食で1万円を、そう高いと思わない。しかし、これはエコノミーダブルに泊まって、6000円の食事をするより高いのだ。レストランで6000円といえば相当豪華なもので、なかなかないくらいだ。「格安泊+豪華食」作戦ということになる。

誤算がひとつあった。駅前のホテルだから、駐車料が1000円だった。朝まで車を預けておかなくてはならないから、食事は徒歩圏内でするしかない。昨日のご馳走がまだ尾を引いており、日本食でなく中華くらいがいいかと探した。あまり量が多くない定食みたいなものがいいと連れ合いが言うものだから、ちいさな中華料理の店に入った。酢豚定食850円、麻婆豆腐850円。思いっきりまずかった。どうして貧乏根性が抜けないのだろうか。

白波を舳先に受けて北前の、船の行く手に夢の広がる



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能登北陸(6) 帰り道・軽井沢 [能登北陸]

ホテルには朝食もあったのだが、和食しかない。コンビニで買ったパンをかじって出発することになった。貧乏根性丸出し路線が続いている。夕べ頑張って長野まで走ったから、帰路には少し余裕がある。軽井沢に寄って行く事にした。実は、今年、結婚40周年で、僕らは軽井沢の聖パウロ教会で結婚式を挙げた。大阪から関東に来て、友人の多くは関西だったから、中間点で挙式することにしたのだ。多くの友人が祝ってくれた。

今は周りに建物も増えてしまっているのだが、木立の中の小さな教会といった感じは当時のままだ。観光客が押し寄せることもあったようだが、ブームではなくなったと見えて、それほどの人も見えない。10月はもはやシーズンオフなのかも知れない。結婚した当時、当然ながら、人生に何が起こるかは、全く見えていなかった。不安と希望、そして二人でやれば怖くないといった勢い。それが全てだったと思う。子供たちの出生、アメリカでの生活、子育ての困惑、そして病気。40年は夢の如しだ。

教会の中には、自由に入れる。がらんとした聖堂は木肌造りで昔のままだ。聞くと、カルロス・マルチネズ神父は、まだお元気だそうだ。もう80を超えておられるだろう。40年の報告でもしたい気持ちに駆られたが、わざわざお住まいの方に尋ねるのも気が引けて遠慮することにした。

中軽井沢の奥に「セゾン美術館」があり、行った事がないので立ち寄ることにした。堤清二記念館みたいなものだが、屋外の展示がすばらしい。作品が緑の木立に溶け込んでいる。連れ合いもも、ここは、もっと秋が深まったときにもう一度来たいなどと言っていた。ここのテラスで昼食を取るほうが良かったのだが、少し早かったので街中に出てしまった。

検索すると「菊水」という老舗のレストランで三笠ホテルのカレーを再現して食べさせてくれるという。お昼には丁度いい。落ち着いた感じの雰囲気の良いお店だったが、カレー自体はうまいとは言えない。インド料理店や、カレー専門店には及ばない味だ。大正時代は、こういったまがいもののカレーが珍重されていたのだろう。味でなく、歴史体験としてならお勧めできる。

この後は、一目散に帰宅したわけだが、東関東自動車道が出来て、随分早くなったことがわかった。今回使った酸素ボンベは3本。睡眠時と長く車に乗るときはPOCを使うから、昼間の行動時だけがボンベだ。この組み合わせだと、あらかじめボンベの手配をしたりせずに済むから楽だ。宿に着くたびに、POCや呼吸器を運んで設営しなくてはならないし、朝も、配管をばらして、車に積み込まなくてはならないのだが、それくらいはやるしかない。

たびたび「めまい」に襲われ、立ち止まる必要があったが、それだけに、無事に旅を終えたことの満足感は大きい。一人では出来なかった旅だから、付き合ってくれた連れ合いに感謝しているのは勿論のことだ。
軽井沢木立の中の教会は、40年を経て変わらずにあり



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