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クルーズ(1)---韓国・台湾への船旅  [済州・台湾クルーズ]

海辺に育った僕は、昔から船旅への憧れがある。過去にも検討はしたが実現しなかった。値段が高くて財政事情との折り合いがつかなかったからだ。なぜか日本発のクルーズというのは、べらぼうに高く、他の手段で旅行するほうが確実に効率が良かった。

しかし、、最近、外国のクルーズ会社が日本に進出してきて、リーゾナブルに船旅が楽しめるようになってきた。勤めがなくなり、10日間の休みを取るのも問題なくなった今、これに食指が動かないわけはない。プリンセスクルーズの横浜から、済州島と台湾の基隆、高雄、花連をめぐる航路が運行されている。船の中で過ごし、これらの港では昼間下船して観光するという設定になっている。 オードリーヘップバーンをフィーチャーした豪華客船広告があちこちで見られる。

宿泊と、食事は全部代金に含まれているというから、事実とすれば随分と安上がりだ。豪華などという範疇ではない。もちろん料金は部屋によって大幅にちがう。展望の良い部屋は高いのだが、実際は、窓から見えるのはほとんど海の波だけだし、当然、夜には何も見えない。景色を見たくなればデッキに出ればよいだけの話だろう。多分中途半端な良い部屋よりも、デッキのほうがはるかに見晴らしが良い。今回は、一番安い船底料金で申し込んだ。実際には下から2番目の部屋になる。一番安い部屋はほんの少ししかなく、オトリ広告のようなものだ。

かなり割安と思えたが、よく案内を読んでみると、いろいろとお金を取る仕掛けもありそうだ。毎日一部屋あたり$25のチップが自動的に取られる。食事もちょっと変ったもの、例えば寿司とかステーキを食べたくなれば、それは別の有料レストランに行かなくてはならない。飲み物なども別料金みたいだし、大浴場もインターネットも別払いだ。港でオプショナルツアーに参加すれば、これまた別料金になり、しかも高そうだ。それでも、十分すぎるほどの食事や、スナックは無料で供給されるから、問題があるわけではない。荷物には制限がないらしいので、色々と必要なものは準備して持ち込めばいいのだ。

安直に、オプショナルツアーに参加するより、自分で、いろいろ持ち込んだり、計画したりするほうが楽しそうだ。まだ乗船は先のことだから、追々調べて行くことにしよう。今回は、わが配偶者だけでなく、友人夫婦も一緒に参加してくれると言うことだから心強い。多分、下船しての観光は自分たちで計画することになるだろう。そうすると、下調べが必要だ。台湾については前に台湾旅行で調べたが、済州島は初めてだ。

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クルーズ(2) 済州島と四.三事件 [済州・台湾クルーズ]

クルーズの最初の寄港地は済州島だ。予習をしておこう。

済州島は朝鮮半島の南に位置する火山島だ。1950mの漢拏山が真ん中にあり、これが朝鮮半島南部の最高峰になっている。朝鮮半島が日本の北にあるから、この島も北にあるような気がするが、済州島の緯度は高知県くらいの所にある。気候は、韓国としては一番温暖である。しかし、季節風の影響を受けて島の北側は寒い。こうした気温の分布があるせいか、多種多様な動植物が生息し、珍しい溶岩洞とともに、世界遺産に登録されている。

40kmくらいの直径だから、かなり大きな島だ。朝鮮半島からも少し距離があるから、独自性が高い。古代には耽羅(たんら)国として独立していた。百済そして新羅に朝貢していたが、李氏朝鮮以来は、全羅道の一部となった。朝鮮王朝で、流刑地とされたことから、朝鮮本土で差別感が生まれ、日本が支配するようになった後、日本本土に移住する人たちの中で済州島出身の人たちの比率は高かった。

第二次世界大戦が終わり、ポツダム宣言で朝鮮の独立が確定した。全土で、新国家建設の動きが高揚した。建国準備委員会の元に各地に支部が作られた。治安維持や行政の機構も作られて行き総督府に権限の委譲を要求するところまで進んだ。

この動きは、米ソが予想したよりもかなり急激なものだった。長く日本の支配下にあっても、独立への意欲は非常に高かったのだ。独立に時間がかかると予想していた米ソは、戦後処理については、38度線を堺に、暫定的に分割統治することに合意していた。このことを知った朝鮮人は統一が損なわれることを危ぶんだ。

分断を回避するため9月6日に、朝鮮人民共和国の樹立が宣言された。李承晩、呂運亨、許憲、金九など左右合同の政府で人民委員には金日成も含まれていた。しかし、アメリカは、これを認めず、ソ連との合意を根拠に、38度線以南に進駐を強硬して12日に軍政府を立ち上げた。日帝や 民族反逆者の土地没収と農民への無償分配などの社会主義的施策をかかげ、共産主義者の影響が強かったことが気に入らなかったのだ。

アメリカ軍は朝鮮人民共和国の解散を求め、1946年3月に予定されていた選挙は中止になった。済州島は建国準備委員会の組織化が進み、自治を確立していたので、当然これに対する反発は強かった。建国準備委員会を人民委員会に改め、自治を進めることになっていった。アメリカ軍は旧総督府の役人などを登用した行政組織を整えて行ったので各地で二重行政となった。朝鮮半島北部では、アメリカ軍の権限が及ばなかったので、済州島と同じく、人民委員会による組織化が進み、地主や富裕層が迫害されて南に逃げ出すようになった。アメリカから帰国した李承晩は、朝鮮人民共和国に加わらず、軍政庁と協力して、独立促成中央協議会を作った。

分断の動きは強まり、李承晩たちは大韓民国臨時政府を立ち上げた。48年8月に南朝鮮の単独分離選挙を行うと発表された。47年の3.1記念日に済州島で統一建国を求めるデモがあったが、これに軍政庁の警官が発砲して、ゼネストに発展した。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体(「西北青年団」)を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。このテロの陰惨さに耐えかねて、南朝鮮労働党に組織された住民が済州島各地の警察を襲撃した。これが4月3日で四三事件と言われる由縁だ。

臨時政府は軍を投入して過酷な鎮圧を行い、8月の選挙を強行したが、済州島では成立させることが出来なかった。南朝鮮労働党はゲリラとして山岳地帯に篭り、抵抗を続けた。治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。

朝鮮戦争が始まると、緒戦で圧倒された韓国軍は撤退に際して、北朝鮮に加担しそうな人物を割り出し、予防検束して、多くを処刑した。この一連の虐殺の早計は6万人に上るという大変なものだ。名前がわかっているだけでも2万人ある。在日朝鮮人にはこういった虐殺を逃れて逃げてきた済州島の人たちが多い。この事件は長く共産主義者の暴動による死亡と宣伝され、真実はタブーにされてきたが、現在の韓国政府は、島民に謝罪する立場を明らかにしている。

うーん、自然も社会も、済州島訪問は考えさせられるところが多いものになりそうだ。

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クルーズ(3) 準備と申し込み [済州・台湾クルーズ]

プリンセスクルーズというのは数あるクルーズラインの中でも、ちょっと高級な部類になる。アメリカでは"Love Boat"と言う連続テレビドラマに登場してすっかり有名になっている豪華客船の代名詞だ。しかし、1998年にSkyPrincessがドック入りした時に、多数の予約航海をキャンセルしなければならなくなる事件が起こった。補修を担当したGEが失敗して動力軸を損傷してしまったのだ。GEとの契約条件をめぐって法廷での争いになったのたが、結局、プリンセスが負けて大きな損失になってしまった。これがもとで経営が行き詰まり、競合会社であるカーニバルクルーズの傘下に入ることになっってしまった。日本の営業はカーニバルジャパンが取り仕切っている。しかし、プリンセスのブランドは残っており、カーニバル本体の「ノリノリクルーズ」とは一線を画した「大人のクルーズ」を売りにしている。

こうしたクルーズ船は宿命的に超大型になる。船の積載量は体積つまり寸法の3乗に比例するが、推進抵抗は表面積つまり寸法の2乗に比例するからもともと大型船ほど効率が良い。加えて船内でのエンターテインメントなどの経費等は大型になって客数が大きくなればなるほど乗客あたり単価が安くなるからだ。現在の最新鋭船はロイヤルプリンセスとリーガルプリンセスで14万トンもある。この二隻の投入で余った11万トンのサンプリンセスとダイヤモンドオプリンセスを日本市場に投入することになった。

これまで、休みの取りにくい日本では、長い日数がかかるクルーズの市場が小さかったのだが、これからは余裕のある定年退職組も増えてくる。これが狙い目だ。日本にも日本丸や飛鳥といった船はあったが、飛鳥IIでも5万トンでしかない。必然的に値段が高い。これではなかなか普通のリタイア世代には手が出ない。しかし、トン数を倍にして、20万円以下に価格を引き下げれば多数顧客を獲得できるにちがいないと踏んだのだ。はたしてそれだけ市場が拡大するだろうか、一種の賭けだろう。

プリンセスが、日本発着になってしかも安いのだからありがたい。できるだけ安く買おうと検索してみたが、日本では直売しておらず、どの旅行社もぴったり同じ値段になっている。出港直前になって空室があれば、値崩れするのだが、日本では値段は微動もしない。どこでも同じだから、手近なところで、地元のJTBで予約した。直接ではなく、しかも、間にカーニバルが入っているので、スムーズではない。半年も前に予約して、客室が決まるのは出港の直前になってからだ。船旅のいいところは荷物の持込が無制限なことだ。しかし、宅急便の受付は「SGムービング」に指定されており値段が高い。何のことはない実際に扱うのは佐川急便である。

期待しているのは、日本への進出で、プリンセスのブランド価値を確保しなければならないわけだから、安いからといって「大人のクルーズ」としてのサービスの質を下げるわけには行かないという内部事情があることだ。パンフレットには、毎日の音楽や舞台が用意されており、食事もなかなk豪華なものに見える。一番下の部屋なら10日間の外国旅行で、1人15万円(実際はチップなどを合わせて17万円)だから、どのパック旅行よりやすいくらいだ。それでも、正装しなければならないフォーマルディナーなども設定されている。

なんのかんのと文句を言いながら、申し込みをして乗船の運びととなった。大方の荷物は事前に送っておき、呼吸器障害のある僕は、酸素ボンベを横浜大桟橋まで持ってきてもらい、受け取ってから乗り込む。手続きのカウンターは多数設置されていて、行列が長くなるということもなかったし、大概の手荷物なども、カウンターで預ければ船室まで運んでくれる仕掛けになっていた。車椅子の人もかなりいたし、酸素ボンベを持った人も僕だけではなかった。荷物に制限がないから、船室に酸素濃縮機を設置することも可能だし、介護の機材も多く積み込める。

船名全長最大幅基準排水量
戦艦「大和」263.0m 38.9m 64,000トン
「タイタニック」268.8m 27.7m 46,329トン
diamond princess290.0m37.5m116,000トン


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クルーズ(4) 豪華客船の食事 [済州・台湾クルーズ]

クルーズの特徴の一つは、all inclusive つまり食事も宿泊もエンターテインメントも全部含めて一括料金だということだ。ダイヤモンドプリンセスには、メインダイニングである250席くらいのレストランが5つ。大きなバフェレストランが1つ。ハンバーガースタンド、ピッツアパーラー、アイスクリームスタンドがある。他に有料のレストランもあるのだが、ここまでは最初から料金に含まれているから、お金は払わない。だから、こっちの料理がおいしそうだけど高いから止めとこうなどと、さもしいことは考えなくてすむ。

ディナーはメインダイニングでメニューは毎日変わり、エスカルゴとかロブスターといった結構上等な料理が出てくるフルコースディナーだ。食事の時間は5時半からと、7時45分からの2回制になっているし、席も指定されている。大きなテーブルの場合、外国人などとも仲良くなれて楽しいのではないかと思う。僕らの場合、友人夫妻と一緒に4人席だったので、そんなことはなかったのだが、これはこれで気兼ねなく食べられてよかった。前菜をいくつも頼んだり、お腹が空いておれば、メインコースを2つ頼んだりしても良い。そういう意味では食べ放題だが、注文制だから、いわゆる「食べ放題レストラン」とは異なる。

レストランにはドレスコードがあって、バフェはともかくレストランには水着のまま入っていくわけにはいかない。スマートカジュアルと表現しているが、要するにシャツとズボンをはけばいいということだ。10日間に2回、フォーマルナイトというのがあって、これは正装しろということになる。女性はイブニングドレス、男性はタキシードということになるのだが、実際は黒っぽい背広を着てネクタイをすればそれでいい。中にはきっちり正装する人もいる。こういった格好をして食事をしてみたいと思う人もいるようだ。それはそれで一つの楽しみ方ではある。

僕らにとっては、レストランのメニューは十分な内容で、まったく味に不満はなかったからこれで過ごしたが、もっと上等なものを食べたいという人には、あと25$出して席を予約するイタリアンレストラン、ステーキハウス、すし屋が用意されている。ここも席料を払えばあとは、メニューにお金を払うことはない。ステーキやイタリアンはメインダイニングでも食べられるのだから、特にこういったレストランが必要とも思われないのだが、やはり質が違うのだろう。例えばイタリアンレストランは、Savatini'sである。ローマに本店があって、六本木にも店がある。ディナーだと8000円とかの値段だから、$25の席料だけで食べられるのは安いと言う人もいる。すし屋に関しては、普通に一貫いくらと料金があって評判が悪いとも聞いた。これではお金を気にせず楽しむ非日常性がなくなってしまう。

バフェスタイルの食事場所としてはhorizon court というのが他にある。これは、朝から晩までオープンしていて、いつでも好きなときに、何でも食べることができる。内容は、名の通ったホテルのバフェくらい充実したものだから、着替えるのが嫌ならここでディナーにしても良い。朝食やランチには非常に手ごろだ。もちろん、レストランでも朝食メニューはあるし、午後には、アフタヌーンティもある。

all inclusiveと言っても、アルコール類は別だ。ナイトクラブが6つほどあって、音楽やダンスを楽しめるが、カクテルなどを注文すると、船内カードにチャージされる。もともと酒を飲まない僕には関係がないが、酒飲みには多少つらいだろう。ナイトクラブに席料はなく、何も注文しないで済ますこともできる。実際、多くの客がなにも注文しない。バーもあちこちにあるが、ホステスさんが接待することはない。夫婦でカクテルを傾けるといった少し渋い趣に設定されているのだ。実際にはあまり酒を飲んでいる人、ましてや酔っ払った人はいなかった。日本の男は居酒屋とかキャバクラの乗りがないと酒が飲めないらしい。

10日間、レストランや外食に出かけては、お金も払わず、会釈して帰ってくる。これは結構楽しい。

新幹線や飛行機とは異なり、船旅にビジネス客や急用の客はいない。全員が遊びに来ているのだから、気軽に声をかけても嫌がられない安心感がある。安い部屋でも高い部屋でも食事に違いは全くない。このあたりもリラックスできる要因である。チップも毎日定額で取られるしかけになっているので、こちらも気にしないで済むし、船のスタッフも全ての乗客にサービスを心がけているように見える。フィリピン、メキシコの人が多いが、片言の日本語を覚えたりしていてほほえましい。

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クルーズ(5) 船内でのエンターテインメント [済州・台湾クルーズ]

10日間で寄航して下船するのは4日、ほとんどを海の上で過ごすことになる。だからいろいろと退屈しないように催し物が用意されている。のんびりと過ごして本でも読もうかと思って何冊か用意していったのだが、結局のところ、読んだのは半冊だけだ。

プリンセスオーケストラという6人編成のバンドが、毎日あちこちで演奏する。10人くらいのダンサー/シンガーもいる。器用なもので、これがロックバンドになったり、クラシックをやったり、カントリーをやったりする。これらはこの船専属らしい。この他航海中毎日見かけたのは、ピアノ+バイオリンの別のグループ、ハワイアンのグループ、ジャズピアニストである。この人たちは演奏だけでなくウクレレ教室やフラダンス教室をやったりもする。

さらに、寄港地から乗り込んで次の寄港地まで出演する、マジシャン、落語家、津軽三味線奏者がいた。他にもまだいたかも知れない。これらの演奏が、エントランスホールや劇場、ナイトクラブで、次から次に行われる。スポーツイベントもあって、卓球大会、ミニゴルフ、バスケットボールなどがあった。教室としては、クラフト、折り紙、日本語会話、ブラックジャック、エアロビックス、社交ダンスなどである。ダンスはかなり盛んで、ナイトクラブのダンスに踊っている人が意外にも多かった。踊るのが楽しみでクルーズに参加するということだった。

プールも多数あるし、hot tabがあって、少しぬるいし、水着を着なくてはいけないのだが、海を見ながらお湯に浸かるのは気持ちがいい。本格的な大浴場もあるのだが、$20と有料である。裸になるのに足湯があったり、露天風呂には水着を着用などと変な設定で、わざわざ入ることもないように思えた。プールサイドの寝椅子で映画も見られる。超大型スクリーンが設置されており、星空のもとで映画を見る「movie under the stars」という施設だ。もちろん映画は船室でも見られる。結構新しい映画もやっていて、「アナと雪の女王」はたしか地元の映画館では、まだ上映中だ。

イベントとしては、グラスを多数積み上げてシャンペンを上から滝のように流すもの、氷の彫刻の実演、和食盛り付けの実演、その他いろいろあったが全部網羅できない。カジノがあるからギャンブルを楽しむことが出来るが、あまり賑わってはいなかった。スポーツジムもあって機材はそろっている。船は大きいのでジョギングコースもある。画廊があってオークションがある。図書室には日本語の本もあって、ちゃっかり地球の歩き方台湾編を借り出して読んだ。まあ、いろいろと盛りだくさんなのである。

高級ブティークもいくつか並んでいる。買う人がいるのだろうか。この航海に限って言えば、日本人が90%であとはオーストラリア、ニュージーランドの人が多かったと思う。小耳にはさんだ英語がなまっていた。圧倒的多数が定年退職組の夫婦だ。もう少し若いおばさんグループというのもあった。日本では五月後半に10日間の休みが取れる現役はそういない。見たところ富裕層というわけではなくせいぜい上層庶民といったところだ。金持ちというのは60歳で定年になったりしないから当然ともいえる。年金をやりくりして楽しみを見つけているほほえましい光景だと解釈しよう。

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クルーズ(6) 横浜出港 [済州・台湾クルーズ]

出港は6じなのに、1時に乗船してしまったから昼抜きで腹ペコだ。旅行社からの案内によれば、夕食からサービスが始まるということだが、船室の係員に聞いたらhorizon courtはすでに開いている。早速いってみることに。船の食事の記事で説明したように、ここはバフェだ。しかし、ウエイターがたくさんいて、食事を盛ったお皿を、持ってくれたり、コーヒーを運んでくれたり、少しうるさいくらいサービスが良い。期待していた「食べ放題レストラン」以上の味にご満悦となった。

横浜港は美しい。山下公園やマリンタワーから眺めるよりも、船の14階から見るほうがいいのは当然だろう。出港してすぐにゴールデンゲートをくぐるのが、スリリングで楽しい。2,3メートルしか余裕がなく、見ているとぶつかるのではないかとハラハラする。ディナーを5時半から始めてしまうとこれは見られない。この航海は2600人定員のところ、1000人余りしか乗っていない赤字運行みたいだから席には十分余裕があるはずだ。食堂責任者にかけあって、2nd seating に変更してもらった。これを管轄している人を「metor-di」という。メインダイニングの奥の方にいる。

船の中の廊下では、皆目方向がわからない。エレベータから出た時点で方向の感覚がキャンセルされてしまう。船室の番号の小さいほうが前方、廊下の絨毯の模様が左舷と右舷で微妙に違うことを覚えるまで、迷子にならざるを得ない。1次元配列だから、大きな部屋があったりすると廊下は途絶える。客室が並ぶ階で、番号を頼りに移動して、めぼしをつけたあたりでエレベータに乗って目的地に行くというのが移動のコツなのだが、覚えるまでに時間がかかった。

済州島までは2日掛かりで、翌日は終日海の上だ。船の中をあちこち探検したり、モヨウシ物もたっぷりあるから退屈することはない。狭い船に閉じ込められて、食ってばかりかと思ったのだが、意外にも船内では良く歩くと言うことがわかった。船室から食堂まで250m、この往復三回と劇場行きだけでも1kmになるわけだ。万歩計は連日1万歩を超えてしまう結果となって驚いた。

こういった終日航海の日はフォーマルディナーがある。ネットで調べると結構タキシードの人がいるようだが、90%日本人のこの航海に関しては、黒っぽい背広程度の人が多かったように思う。女の人は和服で極めている人が目立った。似合わない派手なイブニングドレスを着たデブおばちゃんが沢山見られるかと思ったが、そんなことはなかった。中には夫婦でばっちり極めて、なかなかやるなと思わせる人たちもいた。多分そういう趣味なのだろう。

ウエイターは英語しか話せないのが基本だが、挨拶とか、「コレ」「クダサイ」なんかはもちろん通じる。メニューも日本語で書いてあるから、指差すだけでいい。どんな日本人も安心して乗れるように出来ている。速習で日本語を覚えたり大変なんだなあとは思う。部屋のメイドさんは、英語が通じると知って、えらく喜んでいた。日本語で難しいことを言われないだろうかと、緊張していたそうだ。

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クルーズ(7) 済州島四三平和公園 [済州・台湾クルーズ]

済州島ではタクシーで四三平和公園、民族村と城邑日出峰を回った。あちこちにあるトルハルバン石像が面白かったし、石を縦に積んだだけの塀が印象的だった。日本だったらすぐに倒れそうな塀だが地震がないので長持ちする。火山島の自然と島の昔の暮らしを見たのだが、一番記憶に残った四三平和公園のことを書いておこう。

四三事件とは1948年4月3日を契機とした斉州島での民衆虐殺事件である。暴動事件があり、その鎮圧で多数の死傷者が出たことは知れ渡ってはいたが、女子供や老人にいたるまで、実に住民の1割以上がそれに巻き込まれたことは長い間秘密にされてきた。韓国政府が住民に謝罪して事件が明るみに出たのは近年のことである。それまで、四三事件について語ることは、ずっとタブーにされてきた。外国軍隊が侵略してきて住民の虐殺が起こったことは多くある。しかし、国内事件としてこれほどまでに過酷なことが起こったという例はあまりない。

同じ国内で、女子供や老人を虐殺するようなことが、どうして起こったのか、その謎に少しは迫ってみたいというのが今回の旅行計画で考えたことだ。タクシーの運転手に、四三平和記念館に行ってくれと頼むと怪訝な顔をされた。観光客の好むところではないらしい。「行ってもあまり面白くないですよ」「殺されたのは悪い人たちです。でも、子供たちが死んでいるのはちょっと問題ですけど」と、明らかに事件をタブー視する見方を残している。記念館には日本語の出来る人もいて、色々と話を聞くことができた。一時は事件の解明も進んだが、現大統領になってかなり後退しているらしい。

朝鮮の分断はどのようにして起こったか?大方の人は、北からソ連が進駐して共産化し、ソ連の影響を受けなかった南半分が大韓民国を立ち上げたと理解している。北朝鮮が南に攻め入ったことで朝鮮戦争が起こった。国連も攻め込まれた大韓民国を支援したのである。しかし、この理解は必ずしも事実とは言えない。予習したように、朝鮮の統一国家が形成されてきており、選挙も予定されていたのに、アメリカ軍が介入して、これを中止させ、南に軍政を敷いたのだ。アメリカが傀儡とも言える形で軍政下に大韓民国を立ち上げたため、これに反発して北に朝鮮民主主義人民共和国が出来たが、北から見れば南半分をアメリカに取られたという意識になる。

アメリカが軍政を敷いて、大韓民国を立ち上げた当時、反発したのは北半分だけではなかった。済州島がこれに従わなかったのだ。済州島は南の海にありソ連の影響が及ぶはずがない。済州島の事件は、ソ連の侵攻による分断といった単純な見方を覆すものだ。しかし、大韓民国は「北はソ連侵攻の結果」が国の成り立ちの根本にある。単純なソ連侵攻論を守るためには済州島の反乱は、強引であろうとも、速やかに鎮圧しなければならなかった。どうしても、一部の暴徒による騒擾とされなければならなかった。これが、過酷な弾圧を引き起こしタブーを生み出したた第一の要因である。

アメリカ軍が軍政を強行しても済州島の抵抗は続いた。アメリカに後押しされて李承晩が大韓民国の成立を宣言し、投票を実施したが済州島の住民はこれを拒否した。警察が住民を投票所に駆り立てることまでしたが、住民は投票日に山にこもることで、これに抵抗した。住民の自治組織に対抗する大韓民国の行政組織を作らなければならなかったが人材がない。アメリカは、嫌われている日本統治時代の役人をこれに起用せざるを得なかった。これがさらに住民の反発を招いた。

日本統治の影は大きい。どの国の国民だって外国に支配下に置かれたくはない。しかし、日本統治下では、当然、日本に取り入り、手先となって、比較的裕福な暮らしをする人も出た。日本の敗戦とともに、このような人たちは売国奴と呼ばれ、一転、職も地位も奪われることになった。とりわけ、北では厳しい追及を受けたから、流民として南に逃れてきた人たちもいた。こういった人たちをアメリカは自警団として済州島に送り込んだのである。共産主義への憎しみに燃える人から見れば、済州島民はみな悪魔に見えた。暴行事件があちこちで起きたが、警察とは馴れ合いの状態だった。

全島でゼネストが組織され、警官が発砲する事件が起こり、自警団と警察の暴行にたまりかねた住民による警察署襲撃が起こったのが4月3日である。これまで自治組織を担ってきた南朝鮮労働党が武装して山岳地帯に立てこもり、本土から送り込まれた軍隊と対峙した。しかし、世界に向けては、済州島ではまだ治安が確立されておらず、一部の暴徒が山賊化して、住民や警官を襲っているなどと報道された。

韓国正規軍のほうが強力なのはもちろんだが、住民に溶け込んだ南朝鮮労働党の弾圧は容易ではなかった。麓の村と山岳地帯を行き来するゲリラに手を焼いた軍隊は、住民に海岸線から6km以内に移住する命令を出した。それに従わない住民は暴徒として討伐するというのだ。実際には村と畑を捨てて海辺に出るなどということは出来ない。政府軍が山に分け入り、村を焼いた。このときに多数の子供や老人が殺された。済州島ではこうした韓国政府に協力する人たちも、当然、現われ、虐殺に加担することにもなった。

朝鮮戦争が始まると、韓国政府の島民敵視はさらに強まった。戦争の初期は北が優勢で南の軍隊は退却していた。過去の実績から言って、済州島は北に味方して参戦するにちがいないと疑心暗鬼になった。そのとき、住民を虐殺した大韓民国の官憲、あるいはそれに協力した島民は、真っ先に血祭りに挙げられる。ならばという事で、住民を予防検束で駆り集めた。住民をABCにランクわけして思想選別し、実際、B、Cに選別された人たちを片っ端から処刑した。現在飛行場になっている土地の整備では多数の人骨が見つけられている。

日本統治の責任が大きいと思う。それに迎合して生き延びる人、抵抗する気持ちを持った人の間に大きな亀裂を作った。亀裂が弾圧を生み、さらにその弾圧が亀裂を深めた。生き残った人たちの間にも深い影が残り、それがタブーを生み出した。政府が罪を認めた今も、虐殺の現場にいた人たちの悔い、肉親を失った人たちの恨み、そういった癒されることのない傷跡が済州島の人々には染み付いている。

幅広い民族統一戦線としてスタートしたのではあるが、国連からも見放されて孤立した北朝鮮では、金日成が主導する強硬派が力を強めていった。穏健派が粛清され、独裁が強まる中で、どんどん変質が進んでしまった。一方で、韓国のほうは、怪しげな出自で、軍事独裁やクーデターが続きはしたが、世界との交流の中で民主化の動きが強まり、経済も進展していった。

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クルーズ(8) 花蓮・高雄・基隆 [済州・台湾クルーズ]

台湾最初の港は花蓮である。台湾旅行で来た事があるから2回目ではあるが、同行の友人夫妻にとっては初めてのところだ。上陸してどこへ行くかといえば、もちろん太魯古峡谷ということになる。とてつもなく深い断崖絶壁の峡谷は2度目と言えどもやはり息をのむ。

今回は、ネットで調べて、英語の話せるタクシードライバーを予約しておいた。クルーズには現地でのツアーがオプションであるが、僕は団体行動が苦手だし、値段も高い。タクシーを借り切ったほうが安上がりでもある。酸素ボンベをたくさん船に積み込んで来たから、重いPOCを引きずるよりも、身軽な、酸素ボンベを担いでの散策だ。雨が降っており、傘もささなければ成らなかったので、POCだと大変だっただろう。

台湾は漢字が通用するから筆談が可能だ。しかしながら、単語はいいのだがちょっとした文法がないことには通用しない。前回の台湾旅行では、この準備がなくて苦労した。今度は簡単なフレーズをノートに書いて置くことにした。これが非常に役立った。たとえば「~はどこですか?」は「~在何位」である。「私は~に行きたい」は「想要去~」。発音は難しいのだが、これを紙に書いて見せれば、間違いなく通じる。

同じ漢字でも、日本と台湾とで微妙に意味を表す字が違うことが多い。私->我 なんかはわかりやすいが、願-->想 あたりは微妙。行->去になるとまるで反対に思える。

花蓮と済州島でタクシーをチャーターしたのは、波止場というのが町から離れて公共交通機関へのアクセスが悪いことが予想されたからだ。高雄は地図で見たら近くにMRTの駅がありそうだったし、基隆は港が街中にある。バスや電車のほうが地元の人たちとのふれあいもあって楽しそうだと言うことで予約なしで望んだ。

実際には、大型船の入港は広く知れ渡っていて、波止場に何台ものタクシーが待機していた。早速筆談帳を取り出して蓮池潭に行った。蓮池の中に作った寺宮に長い橋が渡してある。カラフルな竜虎の口が入り口出口になっていていかにも中国風といった景色になる。電動三輪車で探索とかの趣向もあったのだが、降ったり止んだりの雨では仕方がない。少し散歩するだけで終わった。

次の目的地は仏光寺であるが、台鉄の駅まで地図をたよりに歩いて行き、ここから鉄道で少し行って、さらにタクシーで行く。筆談帳の試みは、ここでは失敗だった。簡単なことがなかなか通じず、なにやら言ってくるがわからない。仏光寺への鉄道はないからバスで行けと勧めてくれていたのだ。途中から日本語のわかる人が出てきてしまって、筆談は頓挫。しかし、無事に九曲亭まで鉄道で残りはタクシーとすることができた。

仏光寺は振興の仏教教団らしくなかなか熱心な展示があった。いろんな仏像とか、仏教の歴史とかの系統的な展示はあまりないので、大変面白かった。阿弥陀さまと観音様の区別がつくようになった。帰り道はバスと考えてバス停を探した。筆談帳で話をすると、バイクに乗った若者が筆談で答えてくれた。大体の意味はわかった。地元に住んでいないから良くわからないということらしい。

それではということで、ぶらぶら歩きながら、道行く人にまたノートを見せることにした。声をかけるより簡単だ。停車中の車の人に見せたら、車を降りてバス停まで連れて行ってくれた。みんな親切だ。10分後くらいに駅まで行くバスのあることがわかったが、途中のバス停がたくさんあって、1時間半もかかる。どうしようかと思案していたら

Do you speak English? と声をかけられた。中国語が話せるカナダ人のカップルで、結局この人のお世話になって、近くのお店の人にタクシーを呼んでもらうことが出来た。お店の人の知り合いらしいタクシーの運転手が愉快な人で、なんと日本の演歌を車内に鳴らすのだ。演歌ファンらしい。同乗の友人が、本場の日本語で一緒に歌ってあげると大喜びしていた。

道すがら、これがライチだとかマンゴーとかパイナップルの畑を自慢げに示してくれる。ついにはパイナップル畑の傍らに車を止めて、自分のお金でパイナップルを買い、食べろと勧めてくれる。これがとても美味しい完熟パイナップルだった。日本で食べるパイナップルは硬いうちに採って運搬したものだが、畑で完熟したものはとろけるような柔らかさがある。日本に持って帰れないのが残念だった。

高雄の出航は港湾風景がたんのうできた。夕暮れの港は雰囲気がある。本当に大きくて深い港だ。実に多くの船が停泊しており、ガントリークレーンが夜になっても絶え間なくコンテナを積み下ろししている。離岸してから港を出てしまうまでに悠に1時間はかかった。

基隆では町のタクシーを拾うのに失敗した。港の出口にデスクを構えていた観光案内にタクシーをあてがわれ、野柳まで3時間で1800元ということになってしまった。多分メーターで行けば半額だ。3時間といっても走っている時間は1時間に満たない。不思議なことに野柳の奇岩見物は中国人の観光客がいっぱいで、外国人は少ないという状況だった。

この日は大分欲張った。野柳から帰ると、今度は台北に列車で行った。台北は雨で、結局地下街をウロウロして麺を食べるだけで引き返した。さらに、九分へタクシーで行く。雨ではあるがアーケードを歩いて、多少のお土産などを買って、石段を下りる。また筆談帳でタクシーを拾って帰船。この日は17000歩という万歩計の新記録になった。

疲れすぎたのか、雨に打たれたのが良くなかったのか、フォーマルディナーのあと、のどが痛くなり、翌日も一日風邪で寝込んでしまった。横浜に着いて下船するころには、なんとか持ち直すことができたのは幸いだった。

最後に寝込んでしまい、ちょっと尻切れトンボの旅行にはなったが、初めてのクルーズを満喫することができた。途中で体調が悪くなっても、そのまま寝ておられるというのも船旅の安心感かも知れない。(終わり)


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