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定年後の苦難(1)----コーヒー煎れ [定年後の苦難]

この4月、とうとう定年退職した。

そのうち、僕も定年になるとは思っていたが、本当に定年になったと言う感じだ。給料は貰わなくなったが、まだ遣り残した仕事があってもとの職場に行ったりしているから、あまり生活は変わっていない。なんか理由をつけて生活を変えないようにしているのだろうか?

家の中では大いに立場が変わった気もする。これまで家事を分担していないと言う批判は、「稼ぎがある」と一言で退けてきたが、その優位性がなくなってしまったのだ。女房が僕を食わせていると威張っても反論できない。今だって年金と言う稼ぎはあるのだが、仕事をしていないと汗水流して得た収入とは評価されないのだ。

やってみようと思っても、家事はやはりダメで、料理なんか百戦錬磨の女房にかなうわけが無い。女房の作った料理が断然うまい。敵は30年も練習を積んで、もう名人の域に達しているのだから、いくら僕に才能があっても立ち向かうのは無理だ。この点では残念ながらおとなしく引き下がって、うまいものを食わせてもらうのが得策だ。

女房のほうは、僕の定年後、ますます元気だ。孫娘たちにはかわいい服を作ってやり、折り紙も上手で、おいしいお菓子も作るから、それはそれは尊敬される。ひょっとして孫たちは、おじいちゃんはおばあちゃんが飼っているペットとしか考えていないのではないだろうか。

世間には熟年離婚だとか粗大ゴミ扱いだとか、定年後の暮らしについては厳しい風評が飛び回っている。しかし、今のところ女房は多少威張るが僕にはやさしい。頼みごとは聞いてくれるし、外出も必ずつきあってくれる。定年後、特にいたわられているような気もする。どうもそれが、こいつ、余裕を持ってるな、と受け取れてしまうのだ。

それでも何か家事を分担して、責任は果たしていることにしたい。協議の末、朝のコーヒーは僕が入れることになった。どういう分担であれ、分担を果たしているということではあいこだ。しかし、この相互分担作戦も初日につまづいてしまった。

習慣とは恐ろしいもので、不覚にも、朝起きてそのままダイニングで新聞を読みはじめた。催促されて初めて任務分担を思い出した。コーヒーを入れにキッチンに行ったら、コーヒーポットの上にファネルを広げ、お湯も沸かしてあった。以来、僕のコーヒーいれは、お湯を注ぐだけになってしまっているから分担を果たしていると胸を張って言いにくい。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(2) 孫娘の3歳 [定年後の苦難]

孫娘が3歳になった。朝からキッチンでなにやら忙しそうにしていたおばあちゃんは、バースデーケーキを作って持参する。チョコレートで名前を書いたりして芸が細かい。ろうそくも、ちゃんと3本用意してある。

「おばあちゃんが作ったケーキすごいでしょう」と自慢するのは許しておこう。しかし「だめよ、おじいちゃん、みんなで歌ってからよ」はないだろう。素直に誕生日手順を教えればいいのに、僕を引き合いにだすのだ。

孫娘もなにやらhappy birthday to you らしきものを歌ってご機嫌である。確かに、このケーキはおいしい。プレゼントももらった。「いいなあ、おじいいちゃんも欲しいよ」と言って見たら、「おじいちゃんも3歳になったら、ね」と、返されてしまった。

それは無理だ。しかたがないから、「3歳は、もうお姉さんだね」と持ち上げてみた。「あたしは、こんど学校に行くのよ」。それは、まだ先のことだろう。「"あたし"って誰?」「よっちのことだけど、お姉さんは、”あたし”って言うの」「それで、高校生になるの、おじいちゃんもなりたい?」

なれるものなら高校生の僕にもどりたいが、これも無理だ。おばあちゃんには甘えるくせに、おじいちゃんにはいつも上から目線で講釈をたれる。まだ3歳なのだが、この子は人一倍口が達者だ。おばあちゃん譲りに違いない。

学校に行くのも、高校生になるのも、まだまだ先の事ではあるが、この子は確実にそうなって行く。ひるがえって僕は何になるのだろうか?ここで、はたと気がついてしまった。これまで、学生になったり、社会人になったり、昇格したり、いろいろと「なって」来た。

しかし、僕は今から何にも「なら」ないのだ。定年になっても、歩けるし、しゃべれるし、食べられる。何だって出来ると思っている。しかし、何にも「なる」ことは出来ない。海にあこがれても船乗りにはなれないし、文章を書いても新聞記者にもなれない。失業者にさえなれず、僕はずっと年金老人でいなければならない。夢とは、多くなにかに「なる」ということだ。僕には夢がない。これは苦痛だ。

しかし、我が配偶者の悩まない様子はどうだろう。バースデーケーキを作って、ひたすら楽しそうに見える。彼女は、渡米したときに退職して主婦になった。そして、今もただの老人ではなく現役の主婦だと思っているにちがいない。子どもの躾が無くなった今、しきりに亭主を躾ようとする。ちり紙をごみ箱に捨てろだとか、ごはんをこぼすなとか、、多分、こういうことで自分の主婦としてのアイデンティティーを保とうとしているのだ。それに好意的につきあってやっている僕に感謝すべきだろう。

考えてみれば、何にも「なら」ないというのはいい事もある。僕はいまさら「負け組」にはならないし、リストラ対象にもならない。こういう考え方も含めて、老後を楽しむ哲学を確立するには、まだまだ修行がいるようだ。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(3) 孫から見た自分 [定年後の苦難]

孫娘たち。上は2年生、下は3歳。お姉ちゃんはいっぱしの女を気取り、おばあちゃんや母親と、大根の灰汁抜きがどうのこうのといった話題にまで首を突っ込む。話についていけない3歳は不満げである。まあ、こういう話題は僕にも出る幕がないから、席を離れて3歳の相手をする。

こういうことが度重なったら、3歳は、自分がついていけない話題になると「おじいちゃん、あっちで遊ぼ」と言うことになる。スケジュールのやりくりとか、本当は僕も参加しなければならない話題でも、「おじいちゃん、あっちで遊ぼ」ということになる。すっかり、自分の同類だと思い込んでる。

保育園で、おやつの時間にお買い物ゴッコをやるそうだ。おもちゃのお金で、おやつを買うらしい。「まるいお金と、四角いお金があってね、すごく難しいから、おじいちゃんは出来ないと思うよ」。いくらなんでもそれはないだろう。

定年以来、僕は財布を持っていない。出かける時は連れ合いと一緒だから、いつも大きな財布をハンドバッグに入れている連れ合いに支払いを頼んでしまう。家でパソコンをいじっている時はもちろん財布はいらない。買い物は大抵ネットでするからカードだけでよい。これが、3歳には、いつもお母さんに買ってもらう自分と同じに映るらしい。

親しく頼りにしてくれていることは、悪い気のするもにではない。しかし、この娘に僕は何と見えているのだろうか。僕の祖父は、僕が5歳の時に亡くなった。祖父について何を覚えているかというと、竹のステッキをついていたこと、足をバケツのお湯で温めていたことくらいで、ほとんど記憶に残っていない。この娘の記憶に僕がどのような形で残るのか非常に心もとない。

自分が現役の時の活躍は、決してこの娘には伝わらない。元気ある、力強い男であったことさえ伝わらない。そう思うと空しい気持ちになる。自分の人生をどうとらえるか。心の修行がかなり必要と思われる。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(4)  「わしも族」 [定年後の苦難]

家にいると運動不足になる、というより、歩行不足で関節が劣化してしまう。僕は万歩計をつけて、毎日最低3000歩を確保することにしている。少ないと笑われるが、毎日絶対にこれ以上歩く最低限であり、平均はもっと高い。少ない日は、夜になってから、スーパーへ買い物について行って、売り場をぐるぐる歩き回る。冬でも夜でも寒くはないから、なかなか都合が良い。夜に買い物をするのは、単身赴任族と共稼ぎの母親が多いことがわかる。

時折、平日の午前とかにスーパーに行くと、熟年のカップルが目に付く。連れ合いに言わせると、これは、「わしも族」だと言う事だ。暇だから、奥さんの外出に、「わしも行く」と言って付いてくる。何にでも付いてきて、あれこれ指図したがる「恐怖のわしも族」と言うのもいるそうだ。買い物についてきても、買うのは奥さんだから、付きしたがっているだけだ。見ていると面白い。レジを通って、袋を持つと、さも自分が主体で買い物をしたように、前に立って歩き出すのである。

僕は、歩くという目的のためにスーパーに行くのだから、買い物している連れ合に付きまとったりしない。「わしも族」ではないと、自分では思っている。目くそ鼻くそを笑うの類かもしれない。「わしも族」だって単独行動するときもある。一番よく「わしも族」の単独行動が見られるのは、図書館だ。平日の図書館には、熟年の男性が圧倒的に多い。多分、掃除の邪魔だから出て行けといわれているのだろう。

図書館とネットは情報収集の場である。まず情報を仕入れて、それで行動を起こす。それは正しいのだが、いつまでも情報収集ばかりやっているのは、足踏みでしかない。僕は、このブログでも報告しているように、せっせと旅行を企画しているし、細々と研究も続けているつもりだし、本も書いたりしている。だからといって、自分の定年後の行き方を模索するようなレベルではないと言い切れるわけではない。無理して忙しくしている背伸びかもしれない。それでもいい。とにかく教育(今日行くところ)と教養(今日の用事)が大切なのだ。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(5) 模型飛行機 [定年後の苦難]

定年後、影が薄くなったことは自覚している。料理も、裁縫も女房にはかなわない。しかし、僕だって得意なものはある。クラフト材料を買いに行く配偶者に付き合ってホームセンターに行ったら、模型飛行機のキットを見つけたのである。「B級ライトプレーン、オリンピック号」だ。昨今は、B級グルメなどと言って、B級というのは二流を意味するようだが、飛行機は違う。A級は30cm以下、B級は50cm以下と規定されており、B級が良く飛ぶ大型機なのだ。60年前のブランドが今も生きているとは驚きだ。少年たちの模型飛行機は、「オリンピック号」「ニュー大阪号」「ペガサス」といったものだった。これが全部、今もある。

孫も、お姉ちゃんは小学校2年生だから、飛行機を作ってよく飛べば、僕のすごさも少しはわかるに違いない。早速買ってきて組み立てた。プラモデルではなく木製の棒が胴体で、竹籤で枠を作り、美濃紙を張って翼にする。昔はプロペラも木製だったのだが、さすがにこれはプラスティックになっている。組み立てにはいくつものノウハウがある。竹籤は薬缶の湯気で曲げを補正する。貼った美濃紙は霧吹きで湿らせて乾かすと、ピンと張りが出る。左右のバランスを崩さないように、正確な組み立てが結果を左右する。ワンステップごとに時間を置いて、接着剤が固まってから次に進む、時間をかけた製作がコツだ。

かれこれ一週間かけて作り上げた。楽しい工作だったと思う。実験研究に身を置いてきたのは伊達じゃない。いいできばえだ。この飛行機はゴム動力で飛ぶのだが、昔と違って、ゴムの性能が格段に高くなっている。これは、飛ぶに違いない。最後の調整は、主翼の位置だ。後ろだと前につんのめり上昇しない。前過ぎると上向きになり失速する。ちょこっと、手投げで飛ばしながら調整していく。調整も万全になった。日曜日に「こども祭り」があって、孫たちもやってくる。紙飛行機のコーナーなどもあるから、そこでよく飛ぶ飛行機の実演をするのだ。

予定通り、孫たちもやってきて公園はかなり賑わっている。紙飛行機のコーナーで作ってもせいぜい数メーターがいいところだ。このオリンピック号が、そんなレベルのものでないことは確信している。模型飛行機となれば、おばあちゃんの出る幕はない。ゆびをくわえて見ているしかない。ざまあみろ。向かい風が微風で丁度いい。ゴムをいっぱいに巻いて、見てろよと言いながら、飛行機を投げた。見事に風をつかんで、オリンピック号は力強く舞い上がった。ゆるく旋廻しながらどんどん高度を上げていく。

「わあ、すごい」 孫が歓声を上げている。見た目にも高さはわかる。30mくらいにも上がっただろうか。しかし、公園といえども大きさは限られており、端は、14階建てのマンションになっている。我がオリンピック号は、あっというまにマンションの9階あたりに突っ込んでしまった。住人がおれば、気づいて投げ返してくれもするだろうが、日曜日だし、どうも留守だったらしい。オリンピック号の飛行は一回で終わってしまった。

どうだい、おじいちゃんの飛行機はすごいだろう。うん、すごいね。

孫もオリンピック号の素晴らしさには同意してくれた。しかし、一回しかない飛行に何度も繰り返して同意を求めるわけにもいかない。それっきりで、僕の飛行機の話題は終わってしまった。次の週も、おばあちゃんが作った新しいスカートがくりかえし話題になっているのに、おじいちゃんの飛行機の雄姿が話題になることは、もうなかった。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(6) アナと雪の女王 [定年後の苦難]

「レリゴー♪、レリゴー♪」と孫たちが歌っている。買って貰ったCDが英語版だったらしい。よく覚えられるものだと驚くが、どうせ「ありのままに」は、蟻のお母さんという位だから、日本語でも英語でも同じことだ。難しい歌なのだが、大きく腕を差し上げて熱唱する。思いっきり、声を出す解放感が気に入っているのだろう。

空前のヒット映画だというが、確かにディズニーとしては画期的な映画ではある。お姫様と王子様のロマンチックな出会いがあるのだが、イケメン王子が悪者などということは、これまでのディズニー映画では、決してなかったことである。お姫様は徹底的ないい子ちゃんに決まっていたのが、殻を破って、ありのままに生きる決意をする歌として「Let it go」が歌われる。メロディーも決して子供向けの単純なものではない。子どもを勝手に枠に押し込めようとしているのは大人なのだ。自分に対する解放宣言が子どもにも伝わるのだ。

エレクトーンを習っている3年生のお姉ちゃんは、さぐり弾きで、これを弾こうとしているが、なかなかうまく出来ない。おばあちゃんは、ちょっと試みて、諦めたらしい。サビのところだけ弾いてみせてごまかしている。さすが、一度もピアノを習ったことがないくせに、父母にピアノの先生がいっぱいいることで有名な小学校に、音楽の先生として赴任したというツワモノだ。ごまかしはうまい。

僕に音楽ができるはずもないのだが、エレクトーンについている黒いソケットを目ざとく見つけた。MIDIインターフェースがついている。MIDIはRS232Cに良く似たシリアル信号で、1MHz固定クロックの垂れ流しだから、扱いは難しくない。モデムポートのレベルとクロックをあわせるだけでそのまま出力になる。調べたらヤマハが、USBとの変換も出している。これならノートPCにもつながる。おまけに、音楽を構成するシーケンサーソフトもフリーで手に入る。

楽譜を手に入れて、打ち込めば見事にエレクトーンが弾けて、おじいちゃんのほうが、おばあちゃんよりすごいということになるにちがいない。インターフェイスを手に入れ、ソフトもダウンロードして、早速やってみたのだが、この「打ち込み」というのが極めて難しいことがわかった。デバッグが出来ないのだ。譜面どおりに打ち込んで、聞いてみて、どこかおかしいとはわかるのだが、どこがどう間違っているのかがわからない。「打ち込み」は楽譜を見て、音が頭に浮かぶ人でないとできないのだ。

これで諦める僕ではない。さらに捜すと、世の中には楽譜読み込みソフトと言うのもある。一種のOCR(optical character recognition=文字読み取り)だが、楽譜の画像から、読み取ってMIDIコードを出力できるものがある。これは、無料というわけには行かないのだが、お試しは可能だ。また、ソフトをダウンロードしてやってみた。おお、見事にMIDIコードを出力してくれるではないか。

パソコンを持って行って、エレクトーンにつなぐ。演奏が始まる。出だしは良かった。しかし、途中の早弾きの所から、ちょっとおかしい。それからがいけない。最後のほうは何の曲かわからなくなってしまった。

OCRに完璧なものはないという事実を忘れていた。OCRは手直しして初めて使えるものなのである。先にも述べたように、難しくて出来ないのは手直しだから、これでは使えないのと同じだ。音楽の演奏は、文字以上に間違いに厳しい。融通が利かないから、一度間違えると、それ以降の演奏はぐちゃぐちゃになる。意気込んでみたのではあるが、これで、僕の雪の女王は見事に頓挫してしまった。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(7) 孫を連れての旅 [定年後の苦難]

孫は8歳と4歳の姉妹なのだが、この二人を連れて一週間の旅をした。両親が仕事と体調不良で遊びに行けない夏休みのお楽しみに、ジジババが代行を買って出たのである。旅先でも驚かれたのだが、この年齢の子が、両親から離れてジジババについて来たと言うのは、我々にとって快挙かも知れない。ホームシックにならず本当に楽しく過ごせたのだ。孫たちに信頼されているというのは嬉しい。

小さな子どもを連れての旅というのは、実は大変である。何事にも準備に時間と手間がかかる。着替えなどの荷物も多いし、おもちゃまで持たねばならない。遊びが入るから思ったようにさっさと動いてくれない。しかし、今回は船旅である。大量の荷物は先に船室に送っておける。毎日のパッキングやチェックインもない。ホテルが移動してくれるようなものだから三食も自動的に含まれている。

港に着いたら、町を散歩したり、子どもにも楽しめるクマ牧場のような観光地に行ったり出来るし。船内でも、プールで泳いだり、マジックショーを見たり、折り紙教室に参加したり、楽しいことがいっぱいある。家に帰りたいなどと言うことが一度もななかったのも、当然かもしれない。北海道を一周して、ロシアにも立ち寄るというコースなのだが、8歳のお姉ちゃんには、それなりに外国に興味を持つことが出来たようだ。

毎日の食事を作らなくてずむ、おばあちゃんは、出番が少ないかというと、そうではなく、着せ替え人形を楽しんだのだ。船の食事は、毎日レストランなのだが、きちんとした服装をするのが決まりになっている。時にフォーマルディナーの日には、正装していかねばならない。これに目をつけたおばあちゃんは、早くから準備をして、手作りの可愛い服をいろいろ着せては、ウチが一番可愛いと喜んでいる。孫たちも結構これが好きなのだ。小さな子が、おしゃまな服装で、レディー風に振舞うのは、船のクルーからも人気があった。

僕の役割はなんだったかと言うと、引き合いに出されることだ。「パジャマに着替えるのはおじいちゃんとどちらが早いかな」という具合だ。この対応は結構難しい。早すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。朝起きた時も。「おじいちゃんが起こしたかったのに、起こされちゃった。やだやだ」とだだけて見せなければいけない。これには相当な技量と演技力が必要だ。

しかし、こういった努力が、評価されることは決してない。「おじいちゃん、お風呂にはいらないんだったら、熊さんと同じです。動物園に行きなさいっ。」と怖い顔で叱ってくる。「いいよ、熊さんに人参あげて楽しいから」「ちがうの、おじいちゃんが熊さんになるのっ。」と、こんな調子の会話が続く。これも僕にとっては楽しいのだが、最後は、おばあちゃんに言いつけに行く。「おじいちゃん、いい加減にしなさい」と僕が怒られて終わるのが常だ。

結局、僕は損な役回りに終始していることになる。定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(8)  スーパーマーケットの改装 [定年後の苦難]

毎日3000歩歩くという課題で、歩数が足りないときにはスーパーマーケットの買い物に付いていく。まあ、大抵足りないから、いつも行っているようなものだ。この2ヶ月あまり、近隣のスーパーマーケットがリニューアルのために閉店になっていたから、少し遠くのショッピングセンターに通っていた。2ヶ月も店を閉じて、一体何を変えようとしているのか興味があった。

新装開店になって、行ってみると、レジが大幅に変わっていた。品物をスキャンして金額確定までを店員がやり、そのあとの支払いを機械でお客にやらせるシステムだ。これは新しい試みかも知れない。これまでも、お客にレジスキャンをやらせるシステムはあったが、あまり評判が良くなかった。ミスをすると万引きと間違えられるという恐怖感を与えるからだ。なかなか考えている。

同じスーパーだから、売ってあるものはあまり変わらないのだが、惣菜コーナーがかなり充実した。弁当なども、おかずだけで、ご飯がついていないものがある。これを買って帰って、温かいご飯を炊いて食べろということらしい。単身赴任者や共稼ぎ夫婦など、調理に時間を掛けられない人たちが増えているのを見越してのことだろう。

店の隅に、テーブルと椅子があるスペースが出来たことも新しい。結構大きなスペースだ。お茶などの無料サービスもある。そして、それが賑わっている。弁当を買って食べている人、パンを買ってコーヒーを飲んでいる人、子どもをあやしながら奥さんの買い物が終わるのを待っているお父さん。様々だが、杖をついて、買い物途中で、一旦休憩している人もいる。逆に、いままでこういったスペースがなかったことの方が不思議な気がしてくる。

そうか、スーパーマーケットは安い外食店から客を奪おうとしているのだ。安い外食は、880円とかの定食が定番だが、スーパーでその金額を出せば、弁当のほかに、2、3品をつけられる。これは、アベノミックスで痛めつけられている庶民にあらたな生き延びる道を与えることになるかもしれない。

僕が、こういった観察をして賞賛していたら、配偶者は「高い」と一言のもとにはねつけた。390円の弁当とか出来合いのおかずとかは、まだまだ自分で作るより値がはるものなのだそうだ。僕が、普段食っているものは、そのレベルのものだったのか。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


餃子定食を食す [定年後の苦難]

連れ合いが出かけて留守になるので、今日の昼飯はどこかに行って喰えとお金を渡された。1人で外食は随分と久しぶりになる。さて、何を食おうか。

連れ合いが行きたがらない餃子屋に決めた。学生時代は、デモの打ち上げに餃子を食うのが恒例になっていた。午後の講義がない土曜日は、クラスの面々が連れ立ってデモに出かけることが多かった。一種のレクリエーションでもあった。ベトナム反戦、安保破棄を誰もが叫ぶ時代で、今では学生から保守の権化だと思われている教授たちもあの頃は、ベトナム反戦を誰もが叫んでいたのである。

ヘルメットを被ったりしない「穏健派」ではあったけど、その頃のデモは今のように軟弱ではない。スクラムを組んで駆け足だったし、機動隊の隙をついて道いっぱいに広がったり、赤信号で隊列を分割しようとする警官にぶつかって押し切らねばならない。ひと汗もふた汗もかいて、腹も減って、そのあと餃子を食いに行くのだ。うまかった。当時の餃子店は学生たちであふれていた。

今日の餃子店は圧倒的に働く男たちの昼飯だった。作業服の人が多く、鉢巻をした人もいる。往時のようにたくさんは食べられない。一皿6個だから二皿頼もうかと思ったら、この時間帯はご飯もついて定食になっている。ダブル餃子定食は660円。スープとサラダというかキャベツがついている。「ご飯は大盛りですね」と言われてしまった。ダブルなら当然という様子だ。そんなに食べられるか。

店を見回すと、みんなたくましく見える。昼飯を食って、午後からまた、ひと働きするぞ、という気分に満ちている。つらい仕事を乗り越える元気が感じられる。僕はと言えば、午後もまた読みかけの本を読んで、読みながら昼寝をしてしまうかも知れない。店の客は若者や、中年はいろいろいるが、老人は僕だけだ。少し気恥ずかしさを感じてしまう。

そもそも僕は、稼がねばならん、これが仕事だと頑張った覚えがない。給料はもらっていたし、夜遅くまで職場にはいたが、結局、自分に興味があることをやっていたにすぎない。上司の命令をこなそうと努力したり、稼ぐためにつらさを耐え忍んでこそ働いたといえるのではないだろうか。僕は本当に働いていたのだろうか。つい、そんなことを考えてしまう。

いかん。いかん。ネガティブ指向に走ってはならない。
定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(9) おいしい焼き芋の理論 [定年後の苦難]

おいしい焼き芋の店が出来て評判になっている。テレビにも取り上げられたということで、連日賑わい、警備員が交通整理をするありさまだ。確かに、これまでの焼き芋のホクホクイメージとは異なり、ねっちょりと甘い。糖度の高い芋を使っているらしいが、焼き方にも秘密がありそうだ。

芋や米などの穀類は、光合成で出来たデンプンで出来ている。デンプンというのはグリコーゲンが長く繋がった分子構造をしている。このままでは、味もないし、水にも溶けない代物ではある。熱を加えると、分子構造が緩み、水に溶けるようになる。そうすると、唾液に含まれるアミラーゼで分解されるようになる。鎖がちぎれて、つながっているグリコーゲンの数が少なくなったものが糖類だから、噛んでいると甘みが出てくる。この、ほのかな甘味が御飯をおいしいと感じさせる。

サツマイモの場合、唾液を混ぜなくても、それ自体にアミラーゼが含まれているというのが大きな特徴だ。だから、ただ熱しただけでデンプンが糖になり、甘い焼き芋ができる。問題は、この反応をいかに進めるかである。アミラーゼの活性は60度くらいで最も活発になるから、ゆっくりと加熱するのが焼き方のコツになる。石焼き芋は、石からの赤外放射で内部も外部も均等にゆっくり加熱することでこれを実現している。

ゆっくり加熱しさえすれば甘くなるのかというと、そうでもない。実は、デンプンには二種類あり、直線状にグリコーゲンがつながったアミローズと枝分かれして繋がっているアミロベクチンがある。サツマイモには両方が混ざっていてアミロベクチンの方が多い。甘みを出すには、βアミラーゼによる麦芽糖への分解が有効だ。しかし、この反応は、アミロベクチンに対しては25%位しか起こらない。これが甘さの限界になっている。

サツマイモにはαアミラーゼも含まれていて、これは、βアミラーゼのように、反応が25%で止まるようなことはない。しかし、デンプンの鎖をランダムに断ち切り、麦芽糖だけでなくオリゴ糖などの多糖類も作るから、甘さへの寄与は少ない。一旦、αアミラーゼで分解しておいてからβアミラーゼを作用させれば、50%以上に反応を進められることがわかっている。おそらく、αアミラーゼの作用を早い段階で引き出すことが必要なのだろう。もちろん、アミローズの含有量が多い芋を選ぶのが手っ取り早いことは言うまでもない。

αアミラーゼの活性は、70度くらいでβアミラーゼよりも少し高い。つまり、単にゆっくり加熱しただけでは、αアミラーゼの作用を引き出すことにはならない。その前にデンプン自体のα化も必要だが、これは63度で始まり、79度で完結する。だから、ゆっくり加熱するというより、ある程度急速に温度を立ち上げ、80度で糊化を確保して、その後、70度近辺に温度を保ってαアミラーゼを作用させ、60度から40度を保ってβアミラーゼによる麦芽糖の熟成を待つのが良いのではないかと思われる。

ともかくも、時間をかけることが一つの重要なポイントであることは間違いない。アルミフォイルでしっかりとくるんだサツマイモをガスストーブの上において時間をかけてゆっくり焼いてみたら、なかなかおいしかった。普通の蒸し芋とはかなり違う。

これは、上記温度シーケンスをある程度実現できたからだろう。もっとうまく実現するには、ダッチオーブンが最適ではないだろうか? ダッチオーブンを加熱して、あまり温度をあげずに、むしろ生焼けくらいで加熱をやめる。余熱で長時間熟成する。途中、もう一度少しの加熱をして反応時間を引き延ばすのも良いかもしれない。蒸らしを入れるということが糖度を高める点で重要なのである。

ガスコンロに入れられるダッチオーブンを手に入れ、「紅あずま」という芋を買ってきた。実際にやってみて、理論どおりの結果が得られたのには驚いた。ダッチオーブンで18分加熱し、2時間おいたところ、ねっちょりと甘い焼き芋が本当に出来てしまった。これが今評判のおいしい焼き芋だ。アルミファイルで包まないと水分が抜けて皮があまる状態になるが、むしろこのほうが濃縮されて甘くなる。塩水につけるといった前操作は必要がない。15分加熱で1時間置き、さらに5分加熱すると言うのが最新のレセピーだ。

理屈を考えることが、実際の焼き芋作成の役に立ったことが、妙にうれしい。 これで僕のお料理の腕を自慢できる。もはや、おいしいもの作りは、おばあちゃんだけのものではないのだ。しかし、わが配偶者は一言のもとに切って捨てる。「お芋をレンジに入れてスイッチ押すだけでしょ」。 まあ、結果的にはそのとおりと言うしかない。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(10) ひきこもり傾向 [定年後の苦難]

定年退職すれば暇になる。出勤する必要が無いのだから、自由に出かけられると思っていた。温泉などに、ちょくちょく出かけるのもいい。車で出かけて、車中泊でもすれば、費用もたいしてかからないから、ニュースで話題の場所があれば、野次馬に出かけるのもいい。

定年組みが増えれば、町は活気付くのではないかと思われた。しかし、世の中には、出歩いている人がそう多いわけではない。むしろ、出かけもせず家にいる人が多い。不思議なことであったが、自分が定年になって見て、初めてその理由がわかった。結構、時間が取れないのだ。

一番大きな問題は、土日に出かけないと決まってしまうことだ。土日は何でも高いし、どこでも混んでいる。折角、平日が休みなのにわざわざ土日に行くことはない。ということで、頭から土日は出かけないことにしてしまう。

では、平日に出かけられるかというと、実はそうでもない。町内の会合は平日の夜だし、歯医者・病院の予約も平日だ。配偶者のバザー打ち合わせや、役所のいろんな手続きも平日だ。夫婦それぞれが、週に1,2件あれば、結局、連続して出かけられる日は、あまりなくなる。だから現役時代、土日の2日間に出かけていた程度とあまり変わらない。

世の中は、現役者が中心である。お祭りとかイベントは、ほとんど週末や休日に行われる。土日を休息日と決めてしまう定年者は、ますます出番が無くなる。ついつい、ひきこもりがちになってしまう。こんなことに負けてはおられない。何が何でも、機会を見つけて出かけよう。定年者は、遊ぶにも努力が必要だ。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(11) 温泉の入り方 [定年後の苦難]

定年後、ひきこもりにならないように、無理にでも出かけることにしている。手軽に出かける先としては、日帰り温泉が多くなった。温泉は入り方がわからないと入れないというものではない。しかし、やはり手順と言うものはある。僕は行くたびに手順を考えて、改良を重ねてきた。

温泉施設に着いた所からはじめよう。車を降りる前に、時計とか鍵とかメモ帳だとかは、置いて行く方が良い。忘れ物を防ぐには持っていかないのが一番だ。風呂あがりにはボケーとした気分になって、よく忘れ物をするものなのだ。上着なんかも置いていくほうがいい。湯上がりは体がほてって、上着は手に持って車に戻ったりもするくらいだ。ロッカーの大きさが小さいと上着が邪魔になることがある。ロッカーにコインがいる場合もあるからポケットには100円玉を入れて行ってもよい。

脱衣所では、出たあとの事を考えてロッカーを使うことが大切だ。バスタオルなどは、一番奥に入れがちなのだが、湯上がりに引き出したら、着物が全部飛び出してしまうなどと言うこともある。バスタオルは傍らに置いておいて、脱衣が終わった最後にロッカーに入れるべきだ。

風呂場に入ってまず最初にやることは、体を洗うことだ。マナー的にも先に洗ってから湯船に浸かるほうが優れているが、実効的にもそのほうが良い。体の表面には脂分がある。温泉の薬効があるとすれば、その吸収を妨げる脂分を取ってから湯船に浸かるほうがいいと言う理屈になる。最近は石鹸よりボディーソープが置いてあることが多いが、ボディーソープはまず体に塗りつけてタオルでこする。タオルに振りかけて使うと大部分が体に触れずに残り、無駄に環境を界面活性剤で汚染するばかりだ。

どこから洗うかというと、頭からが良い。汚れは下に落ちて行くのだから、体を洗ったあとで頭を洗うと、汚れが体についてしまう。僕はいつも100円ショップで買ったシャンプーブラシと言うのを持っていく。手で洗うよりゴシゴシ洗えて気持ちが良い。最初に頭を洗うと、まだ乾いているタオルで髪の毛を拭くことができる。これは、後で髪の毛を乾かすのに有利だ。特にドライヤーなど使わなくても、温泉を出ることには結構乾いている。タオルで体を洗うのは、頭を拭いてからだ。

僕は、酸素ボンベがいるのだが、以前は、温泉に入るときは酸素を外していた。時々、湯船から出て、脱衣所に戻って酸素を吸うなどということをしていたが、最近は酸素ボンベをバッグから出して、持って入ることにしている。機械式の同調機を手に入れて、湯気をあまり気にしなくてよくなったからだ。湯船近くに置いたボンベからカニューラを伸ばしてゆったりと湯に浸かるのは気持ちがいい。

湯から上がれば体を拭くのだが、濡れたタオルを絞って拭く。いきなり、乾いたバスタオルで拭くよりも良いのは、乾いたバスタオルは水をはじいたりするからだ。絞ったタオルは水を早く吸収する。このあとでバスタオルを使うと、さらっと乾燥して気持ちが良い。

こういったもろもろの温泉ノウハウを連れ合いにも教えてやろうと説明したら、「そんなこと誰でもやっている、あなたが知らなかっただけよ」と言う。 そ、そんなはずはない。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


定年後の苦難(12) 孫たちのこと [定年後の苦難]

僕には3人の孫がいる。3人とも女の子だけど、それぞれ全く違った特性を持っていることに驚かされる。少し不満なのは、僕の気質や特性をしっかり受け継いだ子がいないことだ。

一番大きい子は4年生。この子はとてもソーシャルだ。決してわがままなど言わない。僕にも気をつかったりして、「おじいちゃん、大丈夫?荷物もってあげようか?」と聞いてくる。なんで僕が小学生に面倒をみられなければならんのだと思ってしまう。周りに気配りする徹底した「いい子ちゃん」だ。小さいときから、ご挨拶が大好きで、3歳の時に、我が家の風呂から出てきて、「お風呂お先にいただきました」などとすまし顔で言ったのには腰を抜かすほど驚いた。3歳の言うことか。

一人遊びが出来ないから、いつも相手をさせられる。遊びは専ら「ごっこ遊び」だ。相手をするのは手がかからない。病院ごっこなら、申込書とか、紹介状、診察券に凝って、いろいろと書類を作り出す。電話を受け付けたら、帳面に記録をつけなくてはならない。「いらっしゃいませ」などと、やたら愛想の良い病院なのだが、手続きが多くて、大抵、診察が始まるまえに、御飯の時間になり、終わってしまう。さすがに、4年生になってからは、ごっこ遊びは少なくなった。

もちろん、学校でもいい子で通している。宿題や指示された自主学習は、計画を立てて、全部こなす。先生の受けは当然きわめて良い。観点別評価は、33項目中32項目がAという有様だ。癪なことに、「いい子」だったおばあちゃんの路線をそのまま受け継いでいる。僕は、「いい子」ではなかったので、小学校時代、こんな女の子を敵視していた。先生のお気に入りなんてろくでもない奴に決まっている。けど、本当はこういう女の子が好きだったのかもしれない。おばあちゃんと結婚する破目になった。

次の子は、5歳で、保育園の年少組だ。この子は、周りに気を使わず自分を出せるというところが好ましい。しかし、おじいちゃんを見下す傾向がある。「シートベルト、おじいちゃんより早くできた」と威張る。何かにつけて、おじいちゃんに対抗するのは無論おばあちゃんの影響だ。いつも「おじいちゃんとどっちがおりこうかな」などと、言うからだ。おじいちゃんに威張るのが好きで、「ここから、あそこまで飛べる?」と挑戦してくる。酸素ボンベを抱える体になってしまっているから、降参するしかない。「もう、あっちまで飛べるようになったんだよ。おじいちゃんは”まだ”出来ない」と威張る。僕が将来、元気に飛び跳ねられるよになると思ってくれているのは彼女だけだ。

この子がやたら言語能力に長けているのは、やっぱり、おばあちゃん譲りだ。1歳の時からペラペラおしゃべりだった。1歳というのは、単語が出るだけということになっているが、この子に限ってそんなことはなかった。もう一歳半だったとは思うが、「そこどいてよ、邪魔だから」とお姉ちゃんを押しのけて、ころっと横になって、オムツを替えてもらっていた。まるっきりの赤ちゃんのくせに、口だけは一人前なのだ。文字を教えたことはないのに、勝手に覚えてしまっている。僕に本を読んでくれとねだるのだが、何のことはない自分ですらすら読めるのだ。文字を追う様子が見られず、全くよどみないから可愛くない読み方だ。でも読んでいる声はすごく可愛い。

3人目は今まだ3歳。単語から二語文になり、やっと構文のある言葉が出てきたから、よその子よりおしゃべりではあるが、正常な発達の範囲だ。他の二人のように僕を驚かせることがない子供らしい子だと言える。よく歌うし、四六時中しゃべるのではなく、黙々と遊ぶことも出来る。しかし、積み木をやらせて見たら、3次元的な積み上げをやってしまうので驚いた。他の二人は、3歳では平面に並べるばっかりだった。思い切りも良くて、公園の滑り台をものともしないで滑り降りる。あとの二人は、怖がりで、なかなか滑り降りるようなことは出来なかった。リケジョになって、僕のやった仕事にも興味を持ってくれるかも知れないこの子とは、もう少し遊んで性格を見極めたかったのだが、永住ビザが取れてしまったので、年も押し迫った昨日、息子のいるサンフランシスコに行ってしまった。

このように、同じ孫でも、それぞれに、随分と違う特性を持っている。この子たちが、いったいどのような大人になるのだろうかと思うと楽しみである。しかし、おそらく僕は、この子たちの将来を見届けることはできないだろう。間質性肺炎と白血病だから、そこまで長持ちするはずがないからだ。この子たちの記憶にも、わずかな痕跡をとどめる程度だろう。それを思うと残念でならない。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


会社を立ち上げる [定年後の苦難]

僕は自分の専門に閉じこもらず、間口を広げることを信条としている。まったく分野違いの本を書いてみたり、最近は歴史ブログ(http://yabunira.blog.so-net.ne.jp/)で盛んに記事を書いているし、そのうち本にする目論見もある。外国生活とかいろんな事を経験してきたのだが、唯一つ経験していない世界があることが気になっていた。それは、実社会とのかかわりというかビジネスの世界だ。残念ながら、金儲けだけはしたことがない。

死ぬまでに一度ビジネスの世界に首を突っ込んで社長になって見たい。そう話したら連れ合いは、大笑いした。あんたに出来るわけないと断言するのだ。およそ僕ほどビジネスに向いていない人はないなどと言う。そんなことはない。確かにあまり社会常識に従っていない面はある。しかし、それは社会常識を理解した上での意図的なものだ。連れ合いにはそれがわかっていないだけだ。

アイデアはある。ニッチな商品だが、きっと売れると思う。アマゾンなんかを覗いてみると、似たような商品がいくつも出ているから市場はあるに違いない。僕の考えたものは、性能的にこれらのものより確実に優れている。コストはずっと安い。2千円とかで売っているのだが、僕のは多分原価300円くらいだ。これを1300円で売れば売れないわけはない。1000円の利益になる。なかなかの利益率だ。

しかし、どれだけ売れるかということについてはあまり自信がない。買う人が限られているから、飛ぶように売れるわけではないが、ネット販売なら販売コストもかからないし、小さな物品だから送料もしれている。1000個くらいを作れば、どこかの工場に委託して安い原価で作れるだろうし、時間をかければ在庫は掃けるから、赤字にはならない。

パッケージとか彩色デザインとか、色々と考える事は多い。宣伝も大切かもしれないが、これは時間さえ掛ければ口コミで広がることが期待できる。まず会社を立ち上げないことには、製造委託の交渉も出来ないから、これが第一だ。

そこで、会社の作り方を研究してみた。会社の登記には、結構な手続きがあり、お金もかかる。小さな会社の場合、もろもろの費用で30万円くらいになる。1000個の製造投資に30万円とあわせると、60万円の元手がいる。これは、600個売れた段階で償却されるから、あとの400個分40万円が利益になる目算だ。実際にかかる経費はもっと多いが、オフィスは自宅だし、水光熱費なんかも特に増えるわけではないから、会社維持費はそんなに多くない。やれるじゃないか。

40万円は、大きな利益ではないからこのビジネスだけで食って行くのは難しい。しかし僕は定年後であり、基本的には年金で生活している身だ。大きな利益がいるわけではない。会社の収益はたいしたことないのだが、そのほかに隠された利益があると思う。パソコンやネットワーク費用は、多分経費として計上できるし、社長交際費として外食費用なんかも会社の経費に出来るかもしれない。こういった経費で収益をゼロに見せかければ税金の負担もない、こう考えると楽しくなってくる。もちろん旅行は全部出張だ。

経理とか複式簿記とか、勉強しなくてはならないことが一杯ある。いろいろと調べてみるうちに、税金に問題があることがわかった。会社は例え、利益がなくとも毎年7万円の税金を納めなくてはならないのだそうだ。これは痛い。1000個を売り切るまでに5年かかればそれだけで35万円。ありゃ、利益はなくなってしまう。6年かかれば赤字になる。

ビジネスはスピードが大切で、急成長するか破綻するかのどちらからしい。うーん、これではなかなか、生半可な決心で参入できない。連れ合いが「ほらね」といった顔つきでこちらを見ているのが気に入らない。僕はまだあきらめたわけじゃない。例え利益が出なくとも、5年間社長としての経験が出来ればそれでいいという考え方ももある。金儲けはできなくてもビジネスは出来る。そういうしかないのだろうか。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。

歴史の楽しみ [定年後の苦難]

定年後、確かに時間は出来る。この時間をなにに使うかが問題だ。趣味を持つことが重要である。元気な現役のころはスキーとかサイクリングが好きだったが、さすがに、これだけ病気をかかえ、酸素を担いでいるのでは、それは無理だ。できるだけ旅行に出かけることにしているが、家にいるときの趣味は歴史だ。

若いころ、歴史、特に日本史は好きではなかった。大学受験も日本史がないところを選んだくらいだ。年号とかこまごました歴史上の出来事を丸暗記するのに意味が感じられなかったからだ。しかし、こういった歴史上の出来事を単なる出来事で終わらせずに、相互の関連を考えて行くと面白い。事実を論理で結びつけて行くと、新しい史実が浮かび上がってくる。歴史にも発見があるのだと言うことがわかった。

歴史の本を読んで、考えて行くと、いろんな疑問がわいてくる。これを調べて行くと次々に事実がわかってくる。高校生のころには疑問がわいてくるような読み方が出来なかったのだと思う。最初は「邪馬台国はどこにあったか」とか、論争になっている事柄について、どちらが正しいのだろうといいった気持ちで読んでいた。これも楽しい。

しかし、もっと楽しいのは、あたりまえとされていることに、疑問を見つけることだ。たとえば、聖徳太子が隋に派遣した遣隋使のことを教科書でならったわけだが、実際に日本書紀を読んでみると、隋に行ったとは一言も書いてない。小野妹子は唐に行ったと書いてある。明治維新と言えばドラマでもなんでも坂本龍馬が大活躍するのだが、彼は、明治時代には全く有名人ではなかった

こんなことを調べて行くと、それを多くの人に伝えたくなる。しかし、そのチャンスはあまりない。連れ合いなどは、僕がそんな話をし始めたらすぐに「今、忙しいの、あとにしてね」と言いだす。ウンチク親父は社会の嫌われ者らしい。そこで僕は「歴史ブログ」を書くことにした。これでいっぱい読んでくれる人があり、反応もあるだろうと思ったのだが、ほとんどない。

今書いているのは、病気とか旅行とかの日常のブログだけど、これは時々コメントをもらう。同じような病気を持った人どうしの思いやりといったものが感じられる。しかし、歴史ブログの人たちは仲間意識が薄いようだ。自分の知識を読んでもらいたいばかりで、思いやりなどさらさらない。まあ、お互い様かもしれない。

それだけではないこともわかっている。ブログと言うのはもともと日記だから、短い文を毎日投稿するのが基本だ。歴史を調べて何か月かに一度、まとめて投稿したのでは注目されない。記事は書き捨てで、古くなると見向きもされなくなる。歴史評論などというのはブログに向かないのだ。

そこで僕はwebページを作って、そこに記事を発表していく事にした。目次を整えて記事に飛べる仕掛けだ。これでも、そう簡単に読んでもらえるとは思わない。作っておいて、じっくり待てば、そのうち読んでもらえるようになるかもしれない。はかない努力だ。そのためにHTMLやCSSも勉強しなければならないし、Jabascriptのプログラミングもしなければならない。webページはなかなか面倒だ。趣味ひとつにも苦労をしなければならない。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


土鍋で炊飯に挑む [定年後の苦難]

連れ合いが寝込むという事態になって、はからずも彼女の聖域であったお料理に足を踏み入れることになった。やって見れば簡単で、おかずは何でも出来合いを買ってこられる。やるにしても、「の素」を買ってきてインストラクション通りに材料を入れればよい。連れ合いに言わせればそんなものは料理ではないと言うことだが、一応の味はするし出来立てのおいしさもある。要するに材料と味付けがあればいいのだ。

ところが、これで解決しない問題が一つある。それはご飯だ。スーパーで買ってきたご飯を電子レンジで温めたものはうまくない。いつも連れ合いが炊いてくれていたご飯が、やはりおいしい。これには「の素」もないし、味付けのインストラクションもない。炊き方だけの勝負なのである。

アメリカにいた時、ボスの家に招待されて、「日本人は米が好きだというからボイルしておいたよ。どうだ、うまいか?」などと言われて往生したことがある。ご飯はいくらでも下手に炊けるものなのだ。

ならば、ここはひとつ、僕が上手にご飯を炊いてみようと言うことになった。連れ合いは炊飯器でご飯を炊いている。少量は炊けないらしく、特に最近は連れ合いの食欲がないから、一度炊くと何日も残り、温め直しの味はスーパーのご飯と大差ない。僕の課題は少量のご飯を美味しく炊くことにある。

調べて見ると、少量のご飯を炊く簡便な方法は、それ用の容器に入れて電子レンジを使うやり方らしい。しかし、この方法は評判が良くなく、おいしいという評価は全くない。一人用炊飯器というのもあるが、これも良さそうではない。おいしい炊飯器と言うのは、どれも五合炊きで大きすぎる。中には10万円以上もする高級品があって、それだけ世の中の人はご飯の炊き方にうるさいという事が示されている。

で、この高級炊飯器のどこが違うかというと、①IHによる全面加熱、②温度コントロールと③強い火力なのだが、その謳っていることは、「釜炊きのおいしさ」である。高級炊飯器は釜炊きをシミュレートしてるに過ぎない。ならば釜で炊くのが一番おいしいと言うことになる。

昔、薪を燃やしてご飯を炊いていた頃、羽釜と言われるつばのついた釜に木製の分厚い蓋をしていた。これを「かまど」にはめ込んでつばで支えるしかけだ。炎が釜全体を包み込んで全面加熱になる。「かまど」がないから、これをそのまま使うわけには行かないが、ガスコンロの上に疑似的に「かまど」のような構造を作り、燃焼ガスの通り道を作って、釜の全面加熱ができるようにすれば良いのではないだろうか。

ガスコンロの火力は十分薪に匹敵する強さだ。問題は温度コントロールで、特に少量の場合は変化しやすい。これには容器を陶器にすることで全体の熱容量を上げると言う手がある。数値的には金属のほうが比熱が大きいが、体積当たりに換算するとセラミックスの方がかなり大きい。

探せばあるもので、かまどにあたる「はかま」と釜、蓋がセットになっている「こだわりの羽釜」と言う土鍋を見つけた。吹きこぼれを防ぐために蓋は二重になっていると言う配慮もある。二重蓋は分厚い蓋の役割も果たす。熱容量効果で火力の調整はいらず、吹き止まったら火を消して10分蒸らすだけでよい。二合炊きだから一合も問題ない。加熱は9分だから炊飯器よりもはるかに短時間で炊ける。

値段も安かったからこれを手に入れて、さっそく炊いて見ることにした。しかし、ガスコンロの火が付かない。最近のガスレンジは安全装置が働いて鍋が接触しないと火が付かないのだ。これは、スペーサーを挟んで何とかクリア。当たり前だが、加熱は順調に進んでブクブクと吹いて、火を止めれば蒸らしになる。

初回は、水加減に問題があって、下手くそと言われてしまったが、これは2回目から是正された。僕はなかなか美味しいと思うのだが、連れ合いは「普通」としか評価しない。多分、あんまり僕が上手に炊くものだから悔しいのだろう。

もう少し研究して、連れ合いに美味しいと言わせなければならない。何回か試みれば、きっと美味しいご飯が炊ける。ところがである。まだ何度も使っていないのに、加熱中にピシッという音がして「はかま」が割れてしまった。商品レビューには確かに、耐久性に問題があると書いてはあった。チッ、炊飯研究はしばらく頓挫だ。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。

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