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信州紀行(1)――旅の予告 [信州紀行]

信州に旅をすることにした。山が美しいところだ。体調も悪くない今のうちに出かけておこうとばかりに旅行を計画することになったわけだ。長野県と言わず、なぜかここだけは信州と呼ばれる。若いときに合宿で行ったり、スキーに行ったりした。僕の気持ちの中で美しいところ、楽しいところと言えば、それは信州になる。

スポーツマンではなかった僕としては、立山に登ったのが唯一の登山歴だが、あの時の下りは大町方向に向けて惨めな雨の中だった。岩山が鬱蒼とした木々に囲まれる道に変わり、いつ果てるともしれない曲がりくねった道が続いた。そして、突然目の前に巨大な黒部第四ダムが現れたのだ。あのときの驚きは、感激と言ってよいものだろう。それが今は、トンネルができて、ケーブルカーで室堂まで行けるというのだからもう一度行ってみるべきだ。

軽井沢も行かねばならない。僕らは軽井沢で結婚したのだ。聖パウロ教会のカルロス・マルチネズ神父は、まだ居られるだろうか?結婚式のときに良く響くバリトンで賛美歌を歌っていただいた。30年後の夏に訪れた時にはまだあの教会で、何千組目にもなるだろうカップルを祝福しておられた。

僕らの旅は、大概が行き当たりばったりのいい加減なものなのだが、今回は従兄弟夫婦と一緒に行くから、そうでたらめにも動けない。初めて、宿を予約して計画的な旅行をすることになったのだ。それはそれで面白い。僕が立てた3泊4日の計画と言うのは

1日目:軽井沢周辺散策―ペンション、シルバーフォックス
2日目:小諸あるいは白根火山から長野善光寺に抜けて―立山プリンスホテル
3日目:大町から立山室堂を往復して―別所温泉の花屋旅館―塩田平

というわけで、ペンション、ホテル、旅館を渡り歩くことにしている。毎日違ったタイプの宿泊というのが一つの趣向である。交通手段は車だから、必要なものは全部積み込める。僕の場合、酸素濃縮機やら人工呼吸器といった機械を積み込むから大荷物になる。本当は軽装で自転車に乗って行くような旅が理想なのだが、もはやそれはかなわぬことになってしまっている。バックパックの年齢はとっくに過ぎ去ってしまった。

しかし、ちょっとしたアウトドアライフは楽しもうと思っている。白根火山を眺める草原でコーヒーを沸かしたい。学生時代から愛用している「オプティマス8R」の調子が良くないので、今回は「アルポット」と言うアルコール湯沸かし器を持参することにする。車にはナビをつけたし、パソコンもe-mobileでほとんどインターネットが使えるだろう。こういった「新兵器」を試すのも楽しみの一つだ。

旅の楽しみは予測できない。計画的であろうとなかろうと、予期せぬことを期待するのが旅の醍醐味であることに変りは無い。今日のところはは旅の予告だけに留め、後日その結果をレポートしよう。


信州紀行(2)-----軽井沢 [信州紀行]

軽井沢は碓氷峠で関東から区切られた信越地方に属す。960mの峠を越えるのだが軽井沢の町の標高が940mだから実は峠を超えての下りはほとんどない。昔から避暑地となっている理由は高地ゆえの涼しさにある。 カナダ人の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが避暑のために別荘を建てたのが始まりというが、堤康次郎が別荘地の分譲を企てて大々的な別荘地となった。聖パウロ教会や万平ホテルなど大正期の建物などもある。

実は私たち夫婦はここで結婚した。二人とも関西から関東に来ての結婚だったから、旧友現友半ばして中間点で式をするのが適当ということだったからだ。当時も観光地ではあったから、遊びに来るついでに式に参加してくれと言うノリだった。軽井沢は金持ちタウンの印象もあったのだが、聖パウロ教会での挙式は費用の点から言えば非常に質素なものだった。教会の内部は木肌がむき出しになった簡素な作りで、カルロス・マルチネズ神父が低いがよく響く声で賛美歌を歌ってくださったことが強く印象に残っている。

結婚30周年で軽井沢を訪れ、神父にお会いしたが、大分年をとってはおられたもののまだお元気だった。あれから、また8年で、今年は結婚38年目になる。今回はお会いできなかったのだが、教会にいた人に聞いたことでは、まだお元気でおられるということだった。もう、80近いのではないだろうか。

夏場の賑わいはお祭りの夜店のようで、実に騒がしいのだが、まだ観光シーズンには早いのだろうか店も全部は開いていない。以前あった漆器の店や画廊などがなくなっていた。別荘地としては寂れ気味なのではないだろうか。冷房などというものができると、避暑地の別荘などというものの必要性は半減してしまう。賃貸住宅に住んで建てるのは別荘にしようなどと考えたこともあったが、結局はやめた。別荘にかかる費用はかなりなものになるが、そう頻繁に使えるものではないから効率は良くない。実際、メンテナンスが悪く、草がはびこった家も見受けられた。

しかし、木々に囲まれた道を歩くのは気持ちがいい。さわやかな風で木洩れ日が地面にゆれる。長時間ドライブで疲れていた。万平ホテルのテラスでコーヒーを飲んでしばらく休んでから、今日の宿であるペンション「シルバーフォックス」に向かった。「シルバーフォックス」は中軽井沢にある。正確には中軽井沢は軽井沢ではない。沓掛というのを改名してブランドにあやかろうとしたのだろう。駅前の広い道から少し森の中に入ったところにある。ネット検索して評判の良いところに予約したのだ。

ペンションらしい、とんがり屋根がいくつかついた建物で、まあ悪くない外観だ。ペンションマスターはあまり口数多くない実直な感じの人だった。押し付けがましくないところが良い。隅々まで掃除が行き届いており、清潔な感じがする。ここで従兄弟夫婦と合流して明日からの旅行が始まる。ほかに宿泊客はなく、貸切状態だった。6月の平日というのはこんなものなのだろう。夕食は素晴らしかった。手の込んだフレンチ仕立てで、オードブル、サラダ、魚、肉、デザートのフルコースだった。サラダの分量に驚かされた。大盛りなのだが、新鮮でおいしいから食べてしまう。ペンションでここまで料理が豪華なところは今までなかった。


森の中、教会の十字架日に映えて、40年前も今と変わらず

信州紀行(3)----白根火山ルート [信州紀行]

軽井沢から出発して、南ルートで小諸、上田へ進むか、北ルートで白根、志賀を巡るかで迷った。藤村の「千曲川旅情の歌」に惹かれる。中学生の時の教科書に出てきた詩なのだが、暗誦したのが残り今でも覚えている。是非ともこの詩の現地に行って見たい。そう、思ったのだが小諸回顧園というのは歌碑があるだけで、全くこの詩の面影は見られない、俗悪な観光地だという風評に気持ちが萎えた。

入梅宣言がなされてはいたが、天候は悪くない。それなら北に回って信州らしい山景色を楽しむべきだということになった。軽井沢から北には「白糸ハイランドウエイ」「日本ロマンチック街道」「鬼押しハイウエイ」といった自動車道がつながっている。名前を付けてはいるが道自体は普通の2車線道路だ。周りに住宅や商店はない林間の観光道路だから生活に使われている道ではないので有料なのだろう。

白糸の滝というのは、日本全国どこにでもあり、静岡県富士宮のものが名高い。滝の水が何条もの白い糸が並んでいるように見えるのは全部白糸の滝だといえるが、軽井沢北方にあるのは高さ3m幅80mのものだ。硬い大きな岩とその上の地盤の境界に地下水が集まり、滝となっている。川の途中ではなく湧き水が滝となっているのが面白い。地下水だから年間を通して温度・水量も変らず、濁りもない。美しい滝だ。

白糸の滝の次は鬼押し出しだ。溶岩性の岩がごろごろしているところだ。これは浅間山の天明噴火で出来た溶岩が噴出して固まったあと、急斜面を転がって、それが集まったものだ。「鬼押し出し園」という公園になっており、広い駐車場があるから、夏場は観桜バスが多く集まる。噴火現場の雰囲気はあるが、芸術的な趣はない。岩の間を歩いて観音堂などがある。道すらない江戸時代にここまで来て寺社を建てるのは大変だっただろうと思ったのだが、神社の由来を読んで見ると、意外にも、非常に新しいものだとわかった。建設は昭和33年で寄進者は堤康次郎となっている。

堤康次郎はいわずと知れたセゾングループの創始者で、軽井沢や浅間山周辺の土地を国会議員の特権を使って国から譲り受け、このあたり一体の観光開発を行った。鬼押し出しも、ハイウエーも別荘も、全体が堤の作り出した演出商品なのだ。プリンスホテルが進出し、バスなども多分西部系だろう。

道は「万座ハイウエー」に続き、ここから白根山、横手山の山頂を通って志賀高原へと抜けられる。国道292号線は峠で横切るのではなく、長野、群馬、新潟の県境である稜線の上を通る珍しい道だ。この道での山景色はすばらしい。3000m級の山々は雪が残り、道端にも残雪が見られる。志賀高原にスキーでくれば、横手山までリフトを乗り継いで登るのだが、雪ばかりの時とは景色の彩りがちがう。吹雪いてでもおれば、前すら見えず、ひたすら寒さに耐えるしかない。

志賀高原の道は熊の湯、木戸池、丸池とスキー場めぐりのようにして下って行く。途中、昼時になったので、食事をした。スキー場のレストランだから仕方がないのだが、安くはなくまずい。夏でもやはりここはスキー場なのだ。

残雪が谷間に残る山々を巡りて仰ぐ薄雲の空

信州紀行(4)----善光寺 [信州紀行]

志賀高原を下って善光寺平に出た。長野盆地とも言われる信濃川沿いの平地で、長野市がある。長野市は昔からの大きな町ではなく、明治になってもまだ村だったところだ。位置的にも長野県の北の端にあたり、街道が交わる交通の要所でもない。

なぜ、こんなところが長野県の中心になったかといえば、信州は小さな藩や幕府直轄領に分かれており、廃藩置県で多くの小さな県が出来てしまったことによる。長野村は中野県に属したのだが、中野にあった県庁が焼き討ちに会い、長野村の西方寺に臨時県庁を移して長野県と呼ぶようになった。丁度ここで県の統合が始まり、近隣の県が長野県に併合され、長野県が周りに比べて比較的大きな県となった。そのため統合が進む度に比較的大きな県である長野県の名称が残り、ついには、遠く離れた諏訪や松本も含めて長野県になってしまったと言うことだ。

長野村の中には善光寺領があり、善光寺町と言われる門前町があったので多少は賑わっていた。これが臨時県庁を置くきっかけとなり、のちには大きな町となってオリンピックを開催するまでになったのだから都市の命運というのはわからないものだ。信州の人たちもまさか長野村が県都となり信州全体が長野と呼ばれるようになるとは思わなかっただろう。産業とか城だとかは何もなく、善光寺だけが長野発展のきっかけになったのだから長野を善光寺抜きで語ることは出来ない。

善光寺というお寺は、京都や奈良のお寺ほど立派には見えないが、実は特別な存在である。宗派に属さず、どの宗派からも信仰の対象とされるのは、歴史が宗派分立よりも古いからだ。本尊は一光三尊阿弥陀如来像なのだが、秘仏であり、これを見た人はだれもいない。レプリカを作り、このレプリカでさえ6年に一度しか見せないというのだから徹底している。

この本尊は552年に百済から日本へ仏教が伝来した時のもので、この像を拝むかどうかで、蘇我氏と物部氏の争いが起こったといういわく因縁のあるものだからすごい。しかし、国宝にも重要文化財にもなっていない。見せないのだから指定のしようがないのだ。仏教受け入れをめぐる騒乱の結果、仏像は行方不明になったのだが、50年後に本田善光という人が難波の堀に捨てられているのを発見した。これを生まれ故郷の信州に持ち帰って安置した。しかし、この安置の場所は飯田であり、これを、642年になって長野に移転したのが善光寺というわけだ。この善光寺も1179年に火災で焼けてしまった。戦乱が続いたこの地で焼失は一度や二度ではない。その後1268年、1369年,、1427年、1477年、1484年、1495年、1642年と、計7回の火災焼失が記録されている。現在の本堂は1650年に完成したものだ。

ところが、本尊秘仏に関してはこれらの火災を全部無事にくぐりぬけたことになっている。それだけではない。ここに攻め込んだ武田信玄が甲斐に仏像を持ち出し、さらに織田信長が奪い、豊臣秀吉が受け継いだ。どういうルートをたどったかわからないが、最終的には徳川家康がまた元通り善光寺に戻したということになっている。当然、現在の一光三尊阿弥陀如来像は偽仏ではないかという疑問はもたれている。秘仏でだれにも見せないのだから確認のしようもない。逆にいえば、数奇な運命を辿り、謎に包まれた寺というのが善光寺の魅力だということになる。

秘仏を見ることはできないが、近づくことはできる。秘仏は本堂の瑠璃段にあるのだが、その下の通路に「極楽への鍵」があり、真っ暗な中を手探りで進んでこれに触れるというアトラクションが江戸時代からある。今回の善光寺参りでは是非この「お戒壇めぐり」をやって見たかった。「お戒壇めぐり」をするためには、拝観料を払って本堂を拝観しなければならない。戒壇横にある階段を降りて穴倉の中に入って行く。曲がりがあるので光が入らず、真っ暗になる。壁伝いに行くと腰の高さくらいに何かドアの取っ手のようなものがあり、上下にガタガタと動く。これが「極楽への鍵」なのだそうだ。4人全員無事に鍵を見つけることが出来た。

善光寺のあと、今夜のねぐら立山プリンスホテルに向かうのだが、木崎湖、青木湖を通るために山越えをした。わざわざ細い山道を通る酔狂もまた旅のうちだ。夕刻、無事ホテル到着。

線香の煙あびてる人たちの顔なごやかに善光寺行く

信州紀行(5)---立山アルペンルート [信州紀行]

大町に泊まって翌朝は扇沢からの「立山アルペンルート」に向かった。工事のために作ったトンネルで、トロリーバスに乗って黒部第4ダムに出て、さらにケーブルカーで斜めトンネルを登って黒部平に行ける。ここからはロープウエイで大観峰に上れる。ここからのアルプスの眺めは絶景だ。さらにまたトロリーに乗って室堂まで行くと、そこはもう2450mの高山で、6月でも雪の中になる。 その昔は、富山側から弥陀ヶ原を越えて行く道しかなかった。雄山山頂に登って長野側に降りたことがある。元気な時代だったが雨の中でもあり、大変な道行であったと記憶している。今ではとてもかなわぬことだから、乗りものに乗るだけで行けるのはありがたい。これを逃す手はない。

扇沢に着いたのはまだ朝10時前だったから、平日でもあり待つこともなく切符が買えた。すいているかと思ったら、10時ころから続々と観光バスが到着し始めた。中国人が多い。ダムに着いたら、もう回りは中国語ばかりになっていた。黒4ダムは大きなダムだが、フーバーダムと比べてしまうと小さいと感じてしまう。しかし、ダムを囲む山々の姿が、残雪をがある谷間の白が映えて、実に美しい。ダムの上を歩いて渡り、ケーブルカーに乗る。ここも発電所だから当然、働いている人たちもいる。測量機でダムのたわみを測定中だった。壁には、はしごもついているから保守には上り下りもあるだろう。考えただだけでも大変なことだ。

続いてロープウエイだが、これは中間の柱がない本当のぶら下がり型のものだ。下界から山上へぐいぐいと引き上げられて行くのが感じられる。大観峰には展望デッキがあり、登山者にしか味わえないような山の景色が楽しめる。目の前に北アルプスが広がり、はるか下方に黒部湖が見える。大観峰はデッキから外には出られないのでデッキから見る以外にすることはない。トロリーで室堂まで行けば散策できるだろうと思ったのだが、雪に覆われていて、散策というほどのことはできなかった。駅周辺の雪の上を少し歩いただけだ。

富山側から来た団体客が合流しかなりの賑わいではある。そのほとんどが中国人、朝鮮人で、われわれも中国語で話しかけられてしまうほどだった。中国は台湾からの人が多い、初めて間近に見る雪をみてはしゃいでいた。日本の観光産業は、もはや完全に中国・韓国頼みだということがわかった。よく考えてみれば当たり前のことだ。10億の人口を抱える国が近くにあるのだから、そこからの観光客が多いのが当然なのだ。外国人観光客といえば欧米人となっていた昔のほうがおかしい。近隣諸国に観光などという余裕がなかった異常な時代だったということだ。

室堂からは、来た道を引き返す下山だったが、さらに中国・韓国からの団体が増えて駅は行列が集まってごったがえすようになった。彼らは大声でしゃべるから、実に騒がしい。ふざけたり、子供づれがいたり、楽しんでいる様子で、旗を持ったガイドの前に整列したりしているのは、ほほえましくもある。まだ少し時間の余裕がありそうだったので大王わさび園に立ち寄ることにした。案内書などで観光スポットとして紹介されているが、単なるわさびの農場である。わさびの栽培というのは珍しくはあるが、とりわけ見て感銘を受けるものではない。

ここから、今夜の宿泊地である別所温泉は真西に30kmのところにある。しかし、ここは信州だ。途中に山があり、上田盆地の東端にある別所温泉に出るにはぐるりと回らねばならない。意外と時間がかかりついた時には6時半になっていた。

トンネルをくぐって登れば6月に、雪の壁見る立山の峰

信州紀行(6)---塩田平の温泉 [信州紀行]

別所温泉は、清少納言も絶賛したという古い温泉である。司馬遼太郎は「街道を行く」のなかで、別所温泉を含むこの地方のことを塩田平として特に取り上げている。仏教を大衆化した聖たちの故郷であり、木曽義仲がわざわざ出向いて挙兵の地としたところであり、真田幸昌、幸村親子の本拠でもあり、また鎌倉文化が根付きを見せた地でもある。

ここでの宿は「花屋」という古い旅館だ。よく手入れの行き届いた広い庭にいくつもの離れ座敷があり、渡り廊下で結ばれている。完全な和風建築で、久しぶりに天井板の張られた部屋で寝ることになった。大正時代の建物は、家具調度も当時の雰囲気を伝えており、たとえば、部屋の電話機なども四号電話機、いわゆる黒電話のままにしてある。本館の食堂には大きな梁が組み立てられているのが見える。従業員も全員和服を着こなして、受け答えの物腰も落ち着いた「大正ロマン」を演出しているといったしかけだ。ゆったりとした雰囲気が味わえる。

ここに一泊して翌朝は、別所三楽寺めぐりをやってみた。まず、宿にも近い「北向観音」に歩いていった。もともと長楽寺というお寺だったのだが廃寺となり、現在は安楽寺の管理下にある。普通は南面しておかれる観音堂が、ここでは北向きになっている。善光寺に向かっており、善光寺の仏と対面しているという趣向なのである。庭には大きな桂の木があって「愛染桂」という名前がついている。映画や歌で有名な小説の場所設定がここなのだ。

「花も嵐も踏み越えて........月の比叡を一人行く」だから信州とは関係がなさそうなのだが、この物語は医者と子持ち美人看護婦のラブストーリーで、携帯電話があればあり得ないような行き違いを何度も繰り返して、最後は、看護婦がシンガーソングライターになって、ライブ会場に駆けつけた医者と結ばれるという荒唐無稽なものなのだ。件の歌は、その時のデビュー曲なのだから、比叡山などという関係のない所が出てきてもおかしくないのだ。二人はこの愛染桂の前で愛を誓ったことになっている。

安楽時の本院は少し離れたところにあり、八角三重塔がある。杖を貸してもらって石段を登っていくと見事な四重の塔に行き着く。一番下は少し広がっており、囲いに屋根をつけた裳階(もこし)なので四重のように見えるが実は三重の塔なのだそうだ。形が八角形なのが特異的だ。塔の先端にある相輪の意匠が凝っている。この塔については文献がなく、建造年代が不明だったのだが、近年、年輪分析で鎌倉時代であることが確定したということだ。

もうひとつの楽寺は常楽時で、こちらは茅葺の屋根が素晴らしい。鎌倉時代の建物には東大寺大仏殿のような合理的で力強い天竺様のものと繊細で素朴な味がある唐様のものがあるが、常楽寺本坊や八角三重塔は唐様である。禅宗様ともいわれ唐時代の緻密な様式を受け継いでいる。左手の奥にお寺直営の茶店がある。観光客も少なく、静かな雰囲気で、鶯の声が聞こえる中で、コーヒーを飲めるのは良かった。

ここからは家への帰り道だったが、帰りに無言館と海野宿に寄ることにした。無言館は戦没画学生の作品を展示した美術館だ。芸術と戦争は相反するもので、絵を描きたい人が戦争に駆り出され、命を落とすのは不本意にちがいない。戦病死が多いのは、画学生には戦場そのものが向いていないことの現れだろう。

海野宿は北国街道の宿場だが、参勤交代の大名行列がなくなった明治以降は蚕の名産地となって栄え続けたために、今も宿場の町並みを残している。道の中央を流れる用水、その両側に立ち並ぶ格子戸のはまった美しい家並みが見られる。海野宿のはずれにある白鳥神社の前の河原が、平家物語に「白鳥河原の勢揃い」として出てくる。木曽義仲が、ここに海野氏などの騎馬兵3千を集めて、一気に京に攻め上ったのだから、ここが源平合戦の発端になる。

これで3泊4日の信州旅行を終えて家路についた。無事に帰りついたのは夜9時半だった。

いにしえの鎌倉武士の気迫見る、相輪突き上げる三重の塔



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