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台湾旅行(1) 計画を立てて見る [台湾旅行]

定年記念に台湾旅行を計画した。なぜ台湾かといわれても困るが、台湾には行ったことがない。一応、安全そうだし漢字が通用するということも心強い。常に酸素ボンベを抱えていなければならないとなると、なかなかツアーというわけにもいかず、いざというときに英語が通用しなくとも、漢字で書けば何とかなるような気がするからだ。問題はレンタカーにある。酸素濃縮機の電源を考えれば自動車は必須なのだが、台湾では運転が荒っぽいので有名だ。多分、国際免許が通用しないことも、台湾でのレンタカー使用を避ける傾向に輪をかけている。一応、初日と最後の日だけホテルを予約して車で旅行して廻るつもりだ。本当は先月行っていたはずなのだが、熱を出して寝込んでしまったから今月に延期になった。暑くなりすぎているのではないかと心配になる。

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台湾旅行(2) 台湾出兵 [台湾旅行]

台湾旅行をするとなると予習が必要だ。「もっと気楽に出かけられないの?」などといわれたが、図書館から10冊ばかりの本を借り出して読んだ。何しろ僕らの台湾に関する知識は実に乏しい。日本のすぐ南にあり与那国島からはすぐ近い位置にある。北緯23.5度の北回帰線がとおり、熱帯に属する。そんなに大きな島ではないが、富士山より高い山があり、島全体が険しい山岳地域になっている。歴史的には日本が統治したこともある因縁の島だ。

日本と台湾の関係は明治7年の台湾出兵から始まる。征韓論は時期早尚ということで退避したが、台湾出兵は実施した。矛盾しているようだが台湾出兵は危急の事態ということになった。宮古島から琉球本島に年貢を後納する舟が遭難し、台湾に流れ着いた54人が現地人に殺されたというのだ。琉球を日本領だと主張する限りこれには抗議しなければならない。清国に抗議すると台湾の東岸は清国に従わない蛮族が住んでおり責任は持てないと返答してきた。

意地でも今、下手人を処罰しないことには琉球が日本領だという主張が崩れる。そんなことで征韓論は押さえつけたくせに台湾には出兵した。西郷従道以下2個大隊が台湾に行き、蛮族の頭目たちを殺して帰った。戦闘の細かいことは記録があまりない。台湾出兵の結果、琉球は対外的には日本領と確定したので琉球処分で琉球王朝を滅ぼしてしまった。清国にはボランティア警察を代行してやったとして償金をせしめた。その間、マラリアやチフスに多くの兵士が罹り、死亡も多く、戦闘には勝っても実は損害は大きかった。

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台湾旅行(3) 台湾領有 [台湾旅行]

台湾旅行のための予習の続き。予習ばっかりでなかなか旅行が始まらなくて恐縮だが、台湾についての予習を始めて見るとこれがなかなか面白い。まあ、予習をすればするほど旅行は興味深くなるものだから読むほうも我慢して付き合って欲しい。

台湾は結局日本が領有するのだが、台湾出兵がそれに直ちにつながってはいない。台湾出兵の目的は琉球の確保だったので、日本は出兵の後台湾から引き揚げた。台湾は清国領であることをはっきりと認めた。

このとき尖閣諸島がどうなっていたかというと少し曖昧である。古賀辰四郎がアホウドリを取るための事業を願い出たが、清国の反発を招くことを恐れてを慮って事業を認めなかった。しかし、日清戦争で、台湾と中国本土の間にある澎湖列島を占領した日本は講和条件に澎湖列島だけでなく台湾全体の領有を要求した。結局、清国が折れたので台湾が日本領となり、自動的に尖閣諸島も日本領になった。古賀辰四郎の事業が認められたのも日清戦争が始まってからだ。だから、尖閣諸島は日本が中国から日清戦争で手に入れたものだという主張にはなかなか手厳しいものがある。

澎湖列島の占領でもやはり戦病死が大変な数に昇ったが、台湾はたいした戦闘もなく日本領となってしまった。台湾総督府が置かれ、現役軍人が総督として赴任し、行政権、司法権、軍隊指揮権、六三法による特別立法権まで与えられた。強大な権限を使っての台湾支配が始まった。

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台湾旅行(4) 支配と反抗 [台湾旅行]

台湾予習の続き。

日清戦争で台湾を手に入れた日本は総督府を置いて台湾統治に乗り出した。台湾にはもともと原住の山岳民族がいたが、西海岸は大陸から渡ってきた人たちが住んでいた。大陸から渡って来たといっても、移住後年月が経つと中国本土からはかなり隔絶され、言語も台湾語になってしまっていた。山岳民族の方はひとまとめにして生蕃とか高砂族とかの呼称が付けられたが、多くの部族に別れ、「○○社」と言う部落を作り、言語も部族ごとに異なる状態だった。

山岳地域の野山で採集、狩猟と僅かな農耕で暮らしており、原始宗教の元にあり、「出草」といわれる「首狩り」の風習があった。日本も戦闘で敵の首を取る首狩りの風習があったともいえるが、生蕃の場合、戦いの勲功ではなく、首を狩ること自体が宗教的目的となっていた。女や子どもの首でも良かった。草むらに隠れて、獲物が来ると飛び出して首を狩る。持ち帰った首を家の前に並べてお祭りをする。首が多い家ほど栄えることになっていた。

総督府のもとに台湾経営を始めた日本もこの生蕃には手を焼いた。台湾支配の中核をなしたのは警察と学校だった。警官には「お代官様」の権限が与えられ、暴力的に現地人を使役して部落に派出所を作って無理やり支配した。同様に学校も作り、日本語での教育を始めた。台湾の子供たちが始めた受けた教育は日本語の学習だった。日本語を話す家には食料配給が割り増しされるなどしたため、大人にも急速に日本語が普及した。

巡査には内地の気の荒い士族などが派遣され、政略的に生蕃頭目の娘に子どもを生ませた。優秀な子どもは総督府の理蕃課が選び出して官費給付で師範学校に入れた。こうして、学校では徹底した皇民教育が行われるようになり、生れたときから帝国臣民として教育された現地人は太平洋戦争でも志願して出征するまでになっていた。

しかし、その過程では、警察官による専横支配がはびこり、その権限を利用して在任中に私益をあさるものも多かった。道路工事などは警官が予算を任され、現地人を低賃金や無償で働かせてピンはねが当たり前だった。巡査にしてみれば僻地に追いやられて年季があけるまで内地に帰れないすさんだ気持ちも強く、それが暴力となってしばしば現地人に落ちた。

昭和6年にたまりかねた一部の部族「霧社」が反乱を起こした。元々が首狩り族だから、反乱も野蛮だった。小学校を襲い、多くの日本人の首をはねることで反乱が始まり、日本軍が飛行機や毒ガスまで使って鎮圧した。制圧の仕方も徹底したものだった。協力的な部族を味方蕃と呼んで区別し、報奨金を出して反乱部族の首を狩らした。結果的に反乱部族はほとんど死に絶えてしまった。

この反乱を恥とする教育が行われたことが、戦争中には志願兵になるものが多かった一因でもある。戦後、蒋介石が新たな大陸人を引き連れてやってきて、北京語による支配に切り替わったが日本語で抵抗するものも多かった。国民党の秘密警察による支配も日本軍のそれと変わらぬ陰惨さを持っていた。

それでも、蒋介石の死後、民主化が進み、経済発展と共に、なんとなく大陸人、本島人、山岳民族に分かれたまま、ある意味で豊かになり、今日の一応平和な台湾がある。

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台湾旅行(5)  戦後の日本との関係 [台湾旅行]

台湾旅行の予習の続き。

台湾は戦後日本から中国に返還された。しかし、中国では八路軍と国民党軍の内戦が起こり、内戦に破れた蒋介石が支持者の有産階級を連れて台湾に逃れ、台湾を占有することになった。原住民、本島人、国民党の三つ巴になったが、もちろん少数の国民党が圧倒的な権力を握った。一党独裁で秘密警察を張り巡らし、官憲によるテロも横行した。原住民からみれば、日本支配下のほうがまだましだったとの評価もあるくらいだ。

しかし、日本政府は共産主義を忌み嫌い、国民党政府を中国の唯一の政府と認定した。国民党の方も、一応日本の侵略とは戦った立場なのではあるが、歴代自民党政府は中共憎しの一点から蒋介石を支持した。いまでも右翼には台湾支持が多い。

しかしながら、日本やアメリカはあくまでも経済優先で、中国10億人の市場をいつまでも放置するわけには行かない。アメリカが日本の頭越しにニクソン大統領の訪中を行なうや、あわてて田中内閣の時に、国交正常化を図った。今度は北京が「中国唯一の代表政府」に変わった。言い回しは微妙で「中国は一つという北京政府の立場を理解する」みたいなことになっている。

日本政府が何を支持するかといったことは、住民にとってはどうでも良いことだ。台湾は日本に一番近いし、当然行き来も多い。これまでの歴史経過から、実は日本に多少後ろめたい気持ちもあるのだが、対日感情は概して悪くない。蒋介石が死んでからは、民主化の流れが起こり、国民党独裁の反共国家体制は消えつつある。経済の発展とともにまともな国へと変化しているのは良いことだろう。

現在、中国本土に乗り換えた日本と中華民国の間には国交が無いことになっている。しかし、日本企業は台湾に大々的に進出しているし、台湾でも工業化が起こり、今や多くの電子工学製品が台湾製になっている。実質的には台湾との国交はかなり太いパイプだ。形式上の問題は変なところに弊害が現れ、たとえば日本の国際運転免許は台湾では通用しない。逆も同じだ。

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台湾旅行(6) レンタカー計画 [台湾旅行]

今回の台湾旅行のハイライトは台湾の東部海岸の散策だ。台湾東部は台湾原住民が残っており、他とちがった人々のありようが見られるかもしれない。明治5年の琉球漂着民が最初に上陸した場所でもある。日本統治の影響も色濃く残っているようだし、現在の経済発展から取り残された台湾らしい台湾が残っていそうな気もする。

台湾旅行の簡便な方法はもちろんツアーに参加することだ。値段もかなり安いものがある。でもパッケージの多くは台北あるいは台湾西部に焦点をあてている。東海岸に行きたいとなるとパッケージはあきらめて、全て自前で計画する他無いようだ。実は僕には呼吸障害があって、走ったり階段を上ったりはできない。電池寿命4時間の酸素発生器を持ち歩く必要もあるから、もともとツアーのペースにあわすことは出来ないのだ。安全な方法はレンタカーで12Vの電源を常に確保できる旅行ということになる。

台湾でレンタカーを使うというパッケージはもちろん無い。それどころかインターネットで旅行記を検索してもレンタカーを使った旅行記にはついぞお目にかからない。その理由は台湾では日本の国際免許が通用しないことにある。日本は公式に台湾を国家と認めていないので国債免許の相互乗り入れができないのだ。

しかし、近年は裏道としてJAFの翻訳を持っていけばいいということになったので、十分可能ではある。それでも台湾の運転マナーが極めて悪いという風評が定着しており、日本からの旅行者がレンタカーを敬遠することが今も続いている。日本からのレンタカー予約もなかなか出来ない。

ネットで探すと地元のレンタカー業者はあり、値段も日本国内よりも安い。「嘉賓租車」と言うのを見つけてE-mailで予約した。飛行機は酸素つきでの搭乗になれたUA。すると到着は夜になるから初日のホテルは予約しておく必要がある。レンタカー会社から遠くないホテルとして「復敦飯店」を選んだ。

配偶者がこの計画についてきてくれることになったのだが、やはり、人並みに台北観光もやりたいという条件付になった。結局、最初と最後の日は普通の台北観光に当て、中三日間を東部海岸地帯と言う計画になった。レンタカーでの移動はいきあたりばったり日々ホテルを見つけて泊まる事にした。

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台湾旅行(7) 台北到着 [台湾旅行]

いろいろ準備したし、点検メモを作ったりしてチェックしたから忘れ物はないだろうと思ったら、成田に着いて気が付いたのは、なんと庭履きのスリッパで来てしまったことだ。うーん、成田の人は皆さん靴をはいていらっしゃる。当たり前か。しかたがないので、必要なら現地で買うことにした。とりあえず特に不便はない。

僕は呼吸障害があるので常に酸素吸入が必要だというハンディがある。今回はPOC(portable ozygen concentrator) を使うので電源さえあれば酸素は得られる。しかし電池は3時間しか持たないから予備電池を入れて6時間が充電の限度だ。東京台北は3時間だからなんとか十分だ。去年何度も出かけたからプレミアエクゼクティブになっているから、ラウンジが使える。通関もした後で登場口近くでコーヒーが飲めるのは助かる。早い目に成田に着いてラウンジでフル充電して飛行機に乗り込む。

台湾にも成田と羽田のように2つ空港があり、UAの台北便は9時に遠いほうの桃園空港に着く。手荷物や通関で結構時間がかかるから、ここで予備電池に切り替えて、台北のホテルまでなんとかたどり着くのが計画だ。飛行機は特に問題もなく飛んでくれた。到着して、まず現地通貨を手に入れなければ身動きは出来ない。空港の両替所で1万円札1枚を両替したら3300元になった。大きなお金はクレディットカードだからそんなに現金はいらないとは思ったが、結局一週間の旅行でもこれだけでほとんど間にあった。両替総額は13000円でしかない。

空港から台北まではタクシーだと1400元だがこれは安直すぎて面白くない。調べたところ「長航バス」で140元だがホテルまで500m歩く。この方式を採用したのだが、いざ行って見ると切符売り場に看板が見えない。雨も降っているので、仕方なく125元で松山空港終点まで「国光バス」路線で行きそこからタクシーということに切り替えた。あとで判ったが台北から空港への逆道のタクシーは1000元だそうだ。空港客待ち料みたいなものがあるようだ。

バスに乗り込むと、各座席にナビの画面が写る様になっていた。これはなかなか便利で自分がどこを走っているかがよくわかる。アナウンスは中国語だから皆目理解できないのだが、地図をたどっていくとホテルのすぐそばに来たのがわかった。慌ててその停留所におりる意思表示をした。雨の中ではあったがホテルがすぐ近く、これは長航バスよりもいいではないか。帰りにわかったことは、この停留所には逆向きのバスは止まらない。だから「国光バス」がガイドブックにでてこなかったのだ。

電池をあと1時間くらい残して無事にホテル到着。「復敦酒家」は中国風だがビジネスホテル的なところのあるホテルでインターネットアクセスも万全だ。一応は機内で夕食も食べて特にお腹も空いていなかったので、部屋に置いてあった林檎やバナナを食べて寝た。時刻も日本時間の11時になっていた。まず、だいい一日目はとどこおりなくすべて予定通りだった。(スリッパ履きは除いて)

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台湾旅行(8) 故宮博物館 [台湾旅行]

あいにく昨日からの小雨は止まない。中国風のお粥の朝ごはんを食べながら今日の行き先を考えた。雨なら一日屋内ですごす故宮見物がいいだろうと言うことになり出かけた。台北の交通はMRTという電車網でこれはなかなか便利だ。市内どこでも50元くらいでいけるから手軽だ。自動販売機で丸いプラスティックのトークンを買う。中にICチップが埋め込まれていて近づければゲートが開く。出るときには穴にほり込むからリサイクルされる。

故宮博物館は台北の北の郊外にあり、市中からは少し離れている。雨の中を歩くのはいやだからMRTで土林まで行ってそこからタクシーに乗ったが120元とこれまた安い。小雨の中の移動には非常にたすかる。故宮博物館で、きっとセキュリティで引っかかるだろうと思い、酸素濃縮機を使いながら廻ることを了解してもらおうと日本の障害者手帳を出したら、入館料を無料にしてくれた。介護者である連れ合いの分も含めてだ。

故宮というのは紫禁城のことで、明、清の500年間の居城だから当然北京にある。その宝物の中身がここ台湾で見られるというのだ。国民党が中国本土から逃げ出したときに、値打ちのありそうな文物をごっそり台湾にもちだしたのだ。北京にも故宮博物院というのがあるが、「良いもの」は持ち出されてしまったと言うことになる。だから、台北の展示物はなかなか見ごたえがある。

周時代といえば日本ではまだ縄文式土器の時代なのだが、すでに巨大な青銅器が作られていた。3000年前に大工業と言うべき物があったのだから驚く。青銅は鉄よりもかなり重たい。これだけの大きさのものを作るのは鋳型や工具だけでも相当な構造上の強度が要る。圧倒的な文化の差だ。

現在の日本では中国製といえばなんとなく雑い感じを持っている人が多い。中国人は大雑把で細かい技は日本の特技であるかのように考えていると思う。 だが、清代の工芸品などは非常に細かく精巧に仕上がっており、その緻密さ根気良さに感服させられる。日本の精巧さはやはりあくまでも中国に学んだものだったのだ。

絵画では太平春市図など10m以上もある絵巻物に市中の様子が事細かく描写されているものに感心した。登場人物数百人、それがそれぞれ個性的に描かれている。おそらく、作者はこの一作に生涯を費やしただろう。その創作意欲の迫力に心を打たれた。この他にも気の遠くなるような根気のいる仕事が工芸品には多く見られる。

観光客に人気なのは石の白菜とか煮豚なのだが、これはどういうこともない珍しい石ころだ。むしろ特筆すべきは書だ。王義之なんかの書も素晴らしい。故宮博物館には書も多くあり、漢字文化で育った人には感じさせるものが大きい。台湾人も多く書に見入っていたが、簡体字を使わず今も旧字を使っている台湾ならではの事かもしれない。

館内の食堂で昼食に饂飩などを食べて気が付いたら連れ合いの帽子がない。風で飛ばされたのだろうかと探していたら、博物館の職員やレストランのウエイトレスが総出で一緒に探してくれて最終的には、道路わきの小枝に引っかかっていたのが無事に見つかった。特に上等の帽子というわけではないのだが、親切に探してくれるとこちらも引っ込みが付かない。台湾の人たちはみんな親切だ。実はこの帽子には後でもまた引きずられた。

夕方まで一日をすっかりここで過ごしたが全てを見ることは出来なかった。5時にはレンタカーが予約してあって、これから東海岸へのドライブを始めなければならない。いよいよ台湾での旅の始まりだ。

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台湾旅行(9) 礁渓温泉 [台湾旅行]

レンタカーはホテルまで配達してくれる。車2台で来るのかと思ったら、ドライバーは帰りはMRTに乗ってかえるようだ。免許証翻訳やパスポートをチェックして、クレディっトカードで料金を払うとトヨタの新車を渡してくれた。今日の目的地である礁渓温泉までは高速道路で1時間くらいなのだが、高速道路になかなか入れなくて市中をウロウロしてしまった。高速道路の標識は緑だと信じて疑わない連れ合いは入り口を通り過ぎてしまう。夫婦喧嘩を繰り返しながら地図とにらめっこしてやっと高速道路に入ったころにはかなり疲れていた。

雨も強くなり、運転にも慣れていないのでトロトロ走り、礁渓についたのは日もとっぷり暮れて8時頃になってしまった。高速道路の途中は長い長いトンネルであり、このトンネルがなければ東海岸へ出ることはおぼつかない。道は一本しかないのだ。東海岸が台北とは別世界であるのも当然という気がした。

高速道路を降りて国道9号線を進むと温泉街にはいる。道の両側に「大飯店」とか「旅社」とかの看板が並ぶ。大きな大飯店だと3000元とか結構高い。小さなところに入ってみたら1000元だったが、あまりに汚そうだったので遠慮した。英語も日本語も通じないが盛んに「ダイジョブ」という。何が大丈夫なものか。

少しましな元祖温泉酒店というところに泊まったが2600元でこれは少し高すぎた。多分少し値切るべきだったのだろう。値段を言われてそのままOKと行ってしまったら、逆に怪訝な顔をされた。ここでの交渉は失敗だった。台湾は火山島だから当然あちこちに温泉が沸く。台湾の温泉に浸かるのも興味深いのだが、温泉といっても日本の物とは違う。大浴場はなく部屋にある風呂が温泉と言うだけだ。湯量は豊富で部屋の風呂もすぐに熱いお湯が溜まった。
一応は温泉に浸かったことになる。台湾ではSPAとか日式温泉とかいてあるのが日本で言う温泉だが、それでも水着着用が普通らしい。

温泉街も夜市のようになっていて、晩御飯は「小吃」と言われる小皿料理を食べた。シュウマイとか鶏手羽とか豚足などの類だ。これはなかなか美味しかったし値段は2人で250元と驚くほど安い。地元の家族連れと相席したが、ちょこっと挨拶程度にしかコミュニケーションはなかった。台北よりも大分英語は通じない。お土産に宣蘭餅というのを買ったがこれは餅というより煎餅だ。実は最後にトランクにいれたままレンタカーを返してしまったから持って帰れなかった。台北で買おうとしたがどこにも売っていない。やはり東海岸は台湾では異郷なのである。

お腹も一杯になり、温泉にも浸かって台湾2日目の夜も遅くなったから寝ることにした。台北から僅か一時間、もうここは東海岸だ。明日からいよいよ東海岸の旅が始まる。

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台湾旅行(10) 断崖絶壁 [台湾旅行]

元祖温泉酒店には朝食がついていた。台湾の朝食は「おかゆ」もしくは「饅頭」に決っている。饅頭というのは肉マンの肉なしである。おかゆなら梅干と漬物が欲しいところだが、そうは行かない。野菜はなにか香の効いた生ものがある。そのほか、見た所「デンブ」のようなものだがしょうゆ味ではない妙なもの、どうも豚肉らしい。あとは非常に辛い漬物のようなもの。一応外国人向けにパンも用意してあるが、これはまずい。食べている床をゴキブリが走ったのには恐れ入った。やはり1500元まで値切るべき宿だったのだ。

ともかくも出発。礁渓温泉を出て南へ下ると宜蘭に着く、ここから先は高速道路も無くなり、道は国道9号線ただ一つとなる。海岸線は険しい断崖絶壁が続く。所々に入り江の奥に集落があり、その間は九十九折の山道になる。トンネルも無いことには道が続かない。岩肌に穴を空けただけのトンネルもある。日本が統治した時代に現住の人たちを使役して無理やり道を作ったようだ。観音、谷風、和仁、清水、崇徳などと地名も日本的だ。

こういった村はお互いに行き来が少なかったのだろう。孔子廟がある村は孔子廟ばかり、仏寺のある村は寺ばかり、教会のある村はお墓も十字架で、それらが隣り合わせになっている。宗教によらすお墓を大切にするようで、あちこちに公園かと思われる一角があって、何かと思ったらお墓だった。お墓の一つ一つが塀で囲まれているのが珍しい。

花連に到着する手前が清水断崖といわれ一番すごい景色が見られる。晴れておれば、壮観であったと思うがあいにくの小雨で視界は限られていた。それでもめったに見ることができない景色ではあった。せまい曲がりくねった道を大型バスが猛スピードで追い越していく。退避場所の度によけてやり過ごす必要があった。

海岸線は入り江から川につながり峡谷となる。有名な太魯閣渓谷は見逃すわけには行かないので9号線から外れて山に登っていった。漢語ではターリュージーであるが日本語読みのタロコの方が実は正しい。現地語のタロコに日本が当て字を振り、それを漢語読みするからターリュージーになるのだ。東海岸は日本が上陸するまで中国の手が及んでいなかったことの表れでもある。

太魯閣渓谷の道はすごい。日本にも「落石注意」などという標識はあるが現実感はない。ところがここの道には大きな石がごろごろ転がっている。「注意」するしかない。本質的には一本道ではあるのだが、新道旧道が重なり、一方通行になったりもするし、30分単位で片側通行になったりもする。狭い道に大型の観光バスが来るので、車の運転は難儀だった。 細くてすれ違いが出来無そうなところに来て、向こうからバスがきてしまった。一方通行を見逃したのかも知れないと弱気になったのがいけなかった。右に寄りすぎてガードレールを擦ってしまった。台湾では自損は保険の範囲外だ。extra insuranceをかけてはいたが無駄だった。修理費を取られてしまったが、2万円で済んだ。

太魯閣渓谷の眺めはすばらしい。日本にも峡谷はあるが、ここまで切り立った深いものは見たことがない。はるか下に水の流れがあり、上をみれば細く空が見える。墨絵のような岩肌が本当にそそり立っているのだからすごい。新道はトンネルばかりなのでバスに新道の先で待ってもらい、旧道を歩いて行くのが観光客の見かたらしい。落石があるので歩く人もヘルメット着用になっている。むりやり車で旧道を走ったのだが、それだけの価値はあった。

絶壁を眺めながら昼食はやはり小吃。竹粡をたのむと竹の棒を地面に叩きつける。割れて中にある粽が食べられるようになる仕掛けだ。太魯閣渓谷で大分時間を費やしたので、ここからは内陸にはいり,平坦な道を今夜の目的地である瑞穂温泉に向かった。大分南に走り、北回帰線までもうすぐのところだ。日が暮れる頃到着し、「瑞穂温泉山荘」と言うのを見つけて宿にした。あくまでも温泉に泊まろうという魂胆だ。

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台湾旅行(11) 北回帰線 [台湾旅行]

瑞穂温泉というのは名前からして日本的だが、そのとうり日本統治時代に開発された温泉で、泊まった瑞穂温泉山荘には畳敷きの和室まであった。100年前の建物だからもう使っていないが残してはある。当初、日本の警察保養所だったらしい。鉄分を多く含んだ温泉でかなり濃い褐色をしている。温泉は各部屋のバスにもあるが、これとは別に「家族風呂」が10ばかりもあって、湯量がふんだんだから湯舟もそれぞれ大きい。もちろん温水プールもある。日本感覚の温泉が楽しめるところだ。2人一泊1600元で安い。町まで少し遠いので夕食を頼んだら水餃子と焼飯を作ってくれて250元、これまた安い。老主人は片言の日本語がしゃべれる。

翌日宿を出て、国道9号線を更に南下、北緯23.5度の北回帰線まで行って見ることにした。台湾旅行の始めには北極星と南十字星が同時に見えるか確かめると言うのを目標にしていたが、雨続きでこれは早々とあきらめたが、折角南に来たのだから北回帰線を目標にすることにした。地図には北回帰線の標識があるというのだが、見過ごしてしまい、何度か引き返して尋ねたら確かに大きな標識があった。北から来ると丁度建物の陰になり、真横に来ないと見えない。場所が限定されているのだから、見やすい場所に作るわけには行かないのは当然かもしれない。

北回帰線を行き過ぎたために、お茶の産地に入り込んだ。瑞穂郷舞鶴村は「天鶴茶」の産地として知られる。お茶園に茶房があり、中に入るといろんなお茶を試飲させてくれる。言葉は英語も日本語もダメなのだが、筆談でかなりコミュニケーションが取れるのが面白い。良いお茶だけに値段もそう安くは無いがたしかに美味い。舞鶴は日本統治時代に住田さんと言う人がコーヒーの栽培をして一時はコーヒー園が栄えた。台湾人はあまりコーヒーを飲まないので衰退したが、近年また復活しているそうだ。台北ではスターバックスもあった。

北回帰線の南には、玉里から山越えして長浜に抜ける玉長公路がある。かなりの山道で大変かと思ったが、加油站(ガソリンスタンド)で給油したときに聞いてみたら近年整備されて良い道だそうだ。このあたりでは英語はなかなか通じない。しかし、どこの町にも日本語が話せる人がいるようで、すぐに呼んできてくれた。50代、60代には日本語が話せる人が多い。

この人たちは何処で日本語を学んだのだろうか?この人たちが育った頃はすでに戦後だから日本語の教育は受けていない。台湾原住民の間では、日本語が生活言語になっており、国民党が漢語を強制しても、根強く日本語が残ったのだ。少年時代に親から受け継いだ日本語がベースにあるから、少し勉強すればかなり達者になるらしい。

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台湾旅行(12) 東部海岸線の田舎 [台湾旅行]

山越をして北緯23.5度の海岸に出ると、国道11号線になる。花連までの海岸は北部ほど険しくはなく、所々に砂浜も見られる。小さな町が点在し、その間を海岸線に沿った道がつないでいるのは同様の田舎風景だ。このあたりは中国政権の支配が及ばず、原住民族の世界だったし、今も住民の多くは原住系である。

長浜の町に入って車を降り、どこかで昼食を取ろうとブラブラ歩いていたら、花屋の店先がとてもきれいだったので連れ合いが思わず "They are butiful."と声を掛けた。なんと花屋のお兄さんは達者な英語で答えてきた。日本人がどうやってこんな田舎町に来たのかと不思議がられた。確かに日本人観光客の来る場所ではない。レンタカーで旅行する人でなければ来られないからだ。こちらこそこんな田舎で達者な英語が不思議だった。

昼食に魚なんかを食べたいのだと言ったら、こぎれいなレストランを紹介してくれた。メニューを見て思案していたらやってきて親切に解説してくれた。帰りにもう少し話をしてみたいと思ったのだがその時はもう店先にいなかった。

昼食は焼き魚やエビの定食にしたら、焼き飯やサラダ、汁、シュウマイなどもついて二人で250元。デザートまで出してくれた。なんとなく日本のような台湾にしては垢抜けした雰囲気の店で満足した。目ざとく店の片隅にあるコーヒーメーカーを見つけたので、試みにコーヒーを頼んでみたがやはりここではにコーヒーは誰も飲まないらしい。笑って、それはないと言う様子だった。

店の主人がやってきてパンフレットを見てくれと言う。多少英語が話せる。この店の主人は台湾独立運動の闘士らしい。パンフレットによると、日本が戦争に負けて台湾の領有権を放棄したので、台湾は軍事的に台湾を支配したアメリカの国連信託統治領になった。日本は中国に台湾を返還したのではないというのだ。アメリカは大陸から蒋介石を呼び寄せたが信託統治については何の手続きもしていないから、いまだにアメリカの信託統治領だというのだ。

サンフランシスコ条約に従えば、アメリカは台湾原住民に台湾を引き渡す責任がある。そこで、引渡しを受けるために台湾政府を作った。メンバーリストを見せてくれた。当然この店の主人も政府の一員だ。日本も責任をもって、台湾の返還に協力しなければならないと言うことだった。蒋介石の国民党政府よりも日本の統治が良かったという人たちの1人だ。

昨夜、瑞穂温泉の壁に飾ってあった写真を見て驚いたのだが、日本が台湾を占取した頃、このあたらりの人たちは本当に未開の暮らしをしていた。腰蓑さえ身につけず丸っきりの裸だったようで、占領されたなどと言う意識も持ち様が無かった。学校もいろんな文明も日本語生活の元で始まったのだから、急に国民党が来て漢語を強制されたほうがよほど圧制に写ったのも無理は無い。

霧社の反乱やその鎮圧に毒ガスを使ったことも知っているので面映いが、好意をもたれているのは悪くない。おまけのお茶やお菓子もご馳走になって、頑張ってくださいと言って分かれた。

天気も少し良くなってきて、海岸の景色を楽しみながら花連まで北上して宿を取った。花連は都会だから大きなホテルもある。久しぶりに少し贅沢そうな「花蓮香城大飯店」を選んでみた。レストランなども複数あるホテルだ。これまでの経験でたいした値段ではないだろうと思ったがそのとおり1600元と言う値段だった。

レストランでフカヒレやアワビのついた海鮮コースを食べたが、二人で700元。本当に台湾旅行はコストパーフォマンスが良い。

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台湾旅行(13) 南方澳漁港 [台湾旅行]

花連を出て宜蘭に帰る道は国道9号しかないので、来るときにきた道を引き返すことになが、少し天候も良くなって、小雨でも時々晴れ間が見えるので、帰りの方が景色を楽しめる。時々止まって写真などを写しながらゆっくり北上することにした。

途中の小さな村々の中で、南方澳というところは漁港として目立った。入り江はかなり整備されていて大小20隻ほどもの漁船が停泊している。港のすぐ傍には露天が並ぶ市場や、海産物を取り扱う商店街がある。酸素機械が濡れるのが少し気になったが傘を差して町を歩いた。

魚屋さんでは、店先にある魚を料理して食べさせてくれるらしい。「マンボウ」「焼飯」「シラス」を頼んでみた。いくらゆっくりしゃべってくれても、こちらは中国語をまったく勉強していないのだから通じようがない。どんな料理になってくるのかわからなかったが,任せた。マンボウは野菜とか他の具とともに鍋になって出てきた。シラスは日本のものよりかなり大きい。から揚げになって出てきたがこれは非常にうまかった。焼飯もなかなかいい味で満足し、量が多かったから満腹になり、商店街を歩いた。漁港の雰囲気は日本と同じだ。魚の箱には「さんま」などと平仮名で書いてあるものもある。多分日本に輸出されているのだろう。

車に帰って、酸素機械を積み込む時にがたっとゆれた。そこで赤ランプが付き機械は止まってしまった。雨に濡れたのが良くなかったらしい。台湾製だから台北に帰ればなんとかなるだろう。宜蘭から高速道路に乗って一目散に帰ることにした。僕の場合、呼吸障害の度合いはそう高くないので、安静にしておれば酸素なしでも、すぐに異常をきたすことはないからまだ救急車を呼ぶには早い。運転を連れ合いに任せて、寝ながら帰ることにした。3時頃には台北に着くし、まだ医療機器の会社も営業しているはずだ。

ところがである。台北の入り口までは順調に走ったのに、高速道路の分岐点を間違えて、一般道に出てしまった。道がわからず走っていると、なんと基隆の港に来てしまった。ここでまた台北への高速道路を探すのだが入口がなかなか見つからない。右往左往してなんとか台北に帰りついたのは4時55分。約束のレンタカー返還時刻の5分前だった。

ホテルの人に頼んで修理が出来る所を探してもらったが、修理に2週間かかる代理店ばかりで、営業時間も過ぎているせいで本当の修理ステーションは見つからない。困ったことになったと思いながら、もしやと思って機械を再起動してみた。黄色ランプだがモーターは動いた。そして5分くらい運転したところで、黄色ランプも消えて順調になった。

やれやれ、今回は救急車を免れた。このホテルでまた一泊。明日一日は台北観光にとってある。

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台湾旅行(14) 龍安寺・中正記念堂 [台湾旅行]

台北でもう一日とっておいた。酸素発生器も調子がよくなり、雨も上がったので市内観光をすることにした。どこに行くかは迷ったが龍安寺というお寺が有名なのでMRTで行って見た。龍安寺は台北の東端つまり河口に近く、古くからの台北の下町にある。おそらく清朝に建てられた寺院だ。日本にも同じ名前の石庭で有名なお寺があるが特に関係があるわけではなさそうだ。

白い塀をめぐらし、見るからに中国寺院というような彩色の山門があり、それをくぐるとさらに門がある。お寺の大きさはさほどのものではない。線香の煙が立ちこめ、参拝客は多い。あちこちで線香の束を振りながら何事かお祈りする姿がみえるし、経文を広げ熱心に読経する人たちもいる。日本より宗教心はかなり厚そうだ。

ご本尊は、羅漢や天王といった元仏教偶像で日本の仏像よりもダイナミックで道教やヒンズーの影響が色濃いものだ。ふくよかな天女のようなご本尊も祭ってあった。横でおみくじを売っていたり、テーブルが出してあって、そこにお供え物が置いてあるのは日本の田舎寺の雰囲気だ。

竜安寺の外は古い商店街であり、20年前くらいまでは色町でもあったそうだ。夜市が盛んなようで、朝だったので閉まっている店が多かった。看板を見るとB級グルメのオンパレードだった。公園のすぐそばの細い路地に「元祖胡椒餅」の看板が見えた。ガイドブックに良く出てくる名物なのでさっそく試してみた。一個45元だから、ここでの饅頭相場から見れば高級品かもしれない。

「焼き肉まん」とでも言ったらよいだろうか。ぱりぱりした皮のなかに小龍包のようなジューシーな肉味のアンコが入っている。味付けにはすこし胡椒が利いているのだが辛いわけではない。うまい。絶品といってもよい。「名物にうまいものなし」はあてはまらない。台北にきたら胡椒餅だけは食べてみることをすすめる。

胡椒餅の次は小龍包ということになるが、鼎泰豐なんて店は行列が長くて大変らしい。ガイドブックを調べて、中正記念堂近くの盛園絲瓜湯包に行くことにした。タクシーを拾って100元くらいだから2人ならMRTより安い。台湾のタクシー代が安いことは、歩きにくい人の移動には非常に便利だ。

お昼に頼んだのは小龍包、海老シュウマイ、アサリと糸瓜の蒸鍋で合計350元、さすが都会の洗練された味だった。ついでに中正記念館に立ち寄った。中正とは蒋介石のことで、孫文は中山というのが号だ。なんでこんなにも個人崇拝するのかは多分現代の台湾の若者にもわからないだろう。大陸から逃げてきて圧制をしいただけなのだから。丁度着いたときに防空演習がはじまり、出口の扉が閉じられてしまった。台湾は公式には今も大陸との戦時体制なのだ。

蒋介石の世界の要人との写真が多かったが、特製の大きなロールスロイスだとかも置いてあって、衛兵が妙な歩き方で並んで行進したり、まあ珍しいものを見たという気がした。防空演習といっても大扉を閉めただけで、特に何もなくてやがて開かれた。MRTに乗ってお土産を買いに行こうとDFSに行ったが、特に良いものはなく、これなら空港で買えばよいということになった。

一日見て廻ると疲れる。台北にもご多分にもれず、ドトール、スターバックスなんかのコーヒーショップが出来ている。日本でいわゆる喫茶店のようなものはあまり見ない。中国風の名前のところで、コーヒーとマンゴージュースで一休み。久しぶりのコーヒーは美味しかったし、マンゴージュースが良かった。シャーベットの様な氷がはいっていてマンゴーの甘さと調和する。

ホテルで荷物を受け取り、空港近くの桃園ノボテルへ移動した。松山空港へタクシーで行き。そこからバスで桃園機場へ行く。飛行機に乗るのじゃなくてホテルに行くのだと言ったら、ノボテルの前で止めてくれた。ノボテルはほとんど空港内にある航空会社お抱えのホテルで、近代的な洋風のホテルだ。明日の朝を考えるとホテルはここになる。

一週間の間、毎日雨だったが、桃園へのバスの中から綺麗な夕日がホンのちょっとだけ見えた。

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台湾旅行(15) 飛ばない飛行機 [台湾旅行]

空港近くのホテルに泊まり、翌朝は渋滞の心配をすることもなく5分で空港に着いた。チェックインもスムーズで、酸素濃縮機が例によってセキュリティで多少手間取った他は大してトラブルもなかった。台湾でUAはマイナー航空だからレッドカーペットクラブは無い。替わりにシンガポールエアラインのラウンジを使わせてくれるのでここで、朝食を食べながら充電。飛行機は定刻少し前に搭乗口を離れた。5泊の旅もこれで終わりだ。

飛行機が滑走路に着き、いざ離陸と言うときになった。「油圧計の値がおかしいのでちょっとメカニック来て貰う」というアナウンスがあった。そのうち「滑走路から登場口に引き返して検査する」に変わった。結局、一時間くらいして、「修理に時間がかかるから一旦降りて食事してくれ」ということになった。300元の昼食券を配ってくれたので、ゲート近くのレストランなどに行った。

300元なら結構いい食事が出来ると思ったがそれが間違いだとはすぐにわかった。ここは空港価格だからべらぼうに高い。300元ではハンバーガーがやっとだ。買ってきて待合室で食べていたら、またアナウンスがあって「今日は飛べないから、もう一度通関してUAカウンターにいけ」という。

すでに出国審査を終えているので、パスポートのスタンプを取り消してもらわねばならない。こんな時、必ず長い行列になるので、急いでいくべきだとは知っていたが、酸素発生器の電池が切れかかっている。おまけに、連れ合いがまたもや帽子をなくして探しに行ったりして、結局サービスカウンターの行列の後尾に付くことになった。

サービスカウンターでは300人あまりの乗客の一人一人について、代替のフライトの手配をする。乗り継ぎとか色々ややこしいので、他の航空会社との連絡とかなかなか大変だ。その窓口に2人しかいないのだから、行列はいつまでたっても進まない。そのうち他社のフライトは出てしまい残りの乗客は翌日まで足止めとなった。

台湾旅行はもう1日延びたのだが、ホテルに着いたのは長い待ち時間のあげく夜だったので、観光は出来ない。ホテル代は航空会社持ちだが「城市商旅」という少しくたびれたホテルだった。夕食はバイキングだったがあまり楽しめるようなものではなかった。カリフォルニアから上海に会議で行った帰りに台湾に寄ったら足止めにあった人、香港の会社に勤める日本人エンジニアなど同じような境遇の人たちと話が出来たのは面白かった。

翌日も早めに空港に出かけたのだが、チェックインカウンターが長い行列になっている。よく見ると「flight cancelled」と張り紙がしてある。他社便に乗り換えて送り出そうというのだから、また長くかかる。幸い、行列の後尾と言うことはなかったので、昼前china airlineのボーディングパスを手に入れた。

ここで気が着いたのは酸素発生器が使えるかどうかだ。UA、JAL、ANAなら使えるがCHは確認していない。調べてもらったらだめだというので振り出しにもどった。JALとかANAならOKのはずだと言ったのだが、どうも台北では確認が取れないらしく、結局次の日のUAに回されてしまった。つまり2日間足止めを食ったことになる。

繰り返して謝ってくれて、ビジネスクラスに乗せてくれたし、ホテルはノボテルで食事は圧倒的に良かった。久しぶりの洋食を食べた。さすがに次の日はまともに飛んで、無事に帰ってきたが都合7泊の旅行となった。

                            <台湾旅行 終わり>
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