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初めての海外 [旅行]

私の初めての海外行きはアメリカだった。それまで特に海外とは関係の無い分野にいたのだが、出向でアメリカで働くことになってしまった。準備もくそもなくいきなりの出発だからガイドブックも全く読んでいない。おまけに「すべておまかせ」を決め込んでいる女房と3ヶ月の娘を連れての旅だから緊張は甚だしかった。

まだ成田は開港しておらず、羽田からのパンナム便だった。航空運賃は極めて高く、片道で合計80万円もしたと思う。後で赴任旅費が請求できるはずだとは思っても、ずっしり堪えた。時差による体調不良を懸念して、いきなりシカゴまで行かずにホノルル->サンフランシスコ->シカゴのルートをアレンジしたが、よく考えて見れば、ホノルルが一番時差が大きい。

一番心配したことは英語が通じるかどうかだ。ホノルルでタクシーに乗り、「Please go to xxx hotel on yyy street」と言って、タクシーが無言で走り出したのでホッとした。今思えば多少変な英語だ。こんな時please文は使わない。タクシーの運転手もこれであまりベラベラしゃべる相手では無いと気付いたのだろう。

ハワイは観光地であり、ここに2泊したのだけれど、結局観光をする余裕はなかった。生活習慣の違いにとまどい、なんとか食事をするだけでせいいっぱいだった。実際、生後3ヶ月の赤ん坊に対しては、日本にいてさえオロオロする状況だったのだから余裕がないのは当然だろう。

サンフランシスコについたとたん、空港ロビーでの捕り物に出くわした。サンフランシスコへはバスで行ったが、バスディーポでは切符の販売所が何重にも鉄格子を張り巡らした構造になっていて、治安の悪さを見せ付けられるようで、配偶者は赤ん坊を抱いて固まってしまった。だからサンフランシスコでも観光はしていない。

目的地のシカゴに着いたらいきなり仕事が始まってしまった。日本人はよく働くから感心するよなどと最初に言われてしまうとサボるわけにも行かない。というか、言葉が良くわからない分だけ余分に働かざるを得ない。口でごまかすわけに行かないから、データを沢山出して納得させるしかないのだ。シカゴは観光地ではないが、全く見物はできなかった。

給料は出るのだが、アメリカではとんでもない税率で課税されて支給される。実は年末の確定申告でかなり返ってくるのだが、知らないから耐乏生活を覚悟した。おまけに、赴任旅費は出ても、帰りは勝手に帰れと言われて、帰りの航空運賃を貯めないと、日本には戻れないと言うことになったから大変だ。アメリカには退職金などという制度はない。

やれば出来るもので配偶者は一日3ドルで暮らす計画を立てて実行した。スーパーマーケットの食料品はかなり安いし、消費税も少ない。ガレージセールとか利用すれば家具や日用品も安く買える。アメリカは格差社会なだけに、先進国の常で、一般的には何でもお金がかかるのだが、格差の下の方の人も何とか生き延びる手立てが用意されている社会だと言うことがわかった。

一年経って、もう一年契約が延びることになった。税金が返ってきたし、帰りの切符代は貯まったしで、急に生活は楽になった。しかし、定着した生活習慣と言うのは変えられないもので、やっぱり貧民生活が続いた。それでも、気分的にはもう決して貧しいものではなかった。ついに観光の機会が訪れた。

アメリカでは出張の合間に、現地で休暇を取ることが認められる。出張でサンフランシスコに行き、休暇を取ってロサンゼルスまでドライブした。モントレーの松の木がある海岸で、この海の向こうは日本だと感慨深かった。ロサンゼルスでは勿論アナハイムに足を伸ばしてディズニーランドを楽しんだ。我々の子どもの頃は、ディズニーランドと言えば、雑誌の懸賞で一等に当たって行ける所であり、現実的に行くことを考える対象ではなかった。大の大人ではあったが、ディズニーランドに実際に行けたことは、大きな感激であった。

旅行は楽しい。結局3年間日本には帰らなかったが、夫婦で全く見知らぬ所に行き、新しい体験をする楽しさを味わった。結局は観光地にも行けたし、旅行は楽しいものであると知ることが出来た。年を取ってまだ旅行を楽しもうとする原点はこの最初の海外体験によるものだと思う。

磯原海岸 [旅行]

入院中、病室の狭い空間にいたせいで、無性に広い景色が見たくなった。みんなにつき合わせて磯原まで出かけた。

岩をうち 砕け飛び散る波頭 はるか彼方に 水平線あり(ま)
荒磯に打ち来る波の広がりて、過ぎし病の六ヵ月半(ま)

寄せる波 岩に砕けて散る汐も また流れては砂に染み入る(み)
春の海 何に怒りて 岩を噛む 光はのどか 鳥は遊ぶに(み)


ヨシユキ君が付き合ってくれた一首
波の音 汐の香りに 鳥の影 非日常の 旅に感謝す (よ)

北条大池の桜 [旅行]

北条大池に桜を見に行った。江戸時代からの桜の名所で苔むした古い桜の木があるけど、さすがに花の元気は少ない。まだ咲ききらずちょっとさみしい花見だった。でも、お弁当はおいしかった。

大池に 小波ちらちら 日は陰り 花冷え桜は まだ3分咲き (ま)
桜咲く 池にさざ波 日は陰り 花見に早し まだ3分咲き (ま)
 
大池の 小波ゆらゆら 揺らめいて 桜見る人 今日は花冷え (み)
大池の 水鳥波に 留まりて 桜見る人 今日は花冷え (み)

塩原温泉 [旅行]

塩原温泉は、いくつもの湯質があり、湯量も多いいい温泉だ。古くから開けた温泉のためか、観光地としては垢抜けしない。温泉以外何も無いという感じが行き渡っている。箒川のせせらぎに沿った配置になっており清流が心地よい川音を響かせている。

川音に馴染んで揺れる草の葉に、生きて今ある我が命嬉しく

箱根旅行 [旅行]

母の一周忌に子や孫が集まった。本来なら墓所でやるものだが、遠いし、お楽しみも少ない。だから手近な箱根ということになったのだが、箱根には修学旅行で行ったきりだ。温泉があり、富士山がきれいに見える所だから観光地としては定番の場所だ。

しかし、それ以上の魅力はないから、何度も行く所ではなさそうだ。東京から近いのに、箱根によく行くという話しは聞かない。昔からある定番の観光地ではあるが人気の高い所ではないと言うことだろう。定番の観光地というのは、修学旅行と外国人観光客が多いところと言って善い。

確かに他の観光地より外国人の比率が高かった。外国人でもコーカジアンは見た目でわかるが、そういった外国人より圧倒的に多かったのが、聞いた言葉でわかる外国人、つまりアジア系観光客だった。

そういえば、看板や説明の表記が、日本語、英語のほかに中国語とハングルになっている。今日だけでなく、いつもアジア系観光客が多いということだ。日本の観光事情は変わって来ている。

考えてみれば、日本はアジアに有るのだから、近いところから多くの観光客が来てなんの不思議も無い。過去には、外国人観光客はヨーロッパやアメリカから来るものだと考えられていたが、その方がおかしい。アジアの人たちは日本に観光に来るような余裕が無かった。

今では、こういった国々の人も観光を楽しむ余裕が出来てきたと言うことだろう。これからも、どんどん日本にはアジア系観光客が増えて行く。日本に働きに来ている人も多くなっているだろう。アジアの一体化が進むのだ。
こういった周りの環境の変化は誰にも押しとどめることが出来ない。


漠然と日本の将来を考えて、だんだんと右傾化している状況が心配だったが、これは救いとも言える。偏狭な国粋主義は、一時的には反発で勢いを持つかもしれないが、結局は消えざるを得ない。何十年後かには、日本の人口のかなりの部分を中国人が占めることになるだろう。なにしろ10億人もの人口がある。ごくわずかの比率で日本に移住してもそれはかなりの人口になる。

国内の人口だけではない。製品の販売も多くは中国人をターゲットにすることになる。部品の調達も多くは中国・朝鮮半島からになる。日本は、アジアネットワークの中で暮らしていくことになるから、絶対にこうした国々と戦争なんか出来ない。

そういうことが、やがては認識されるようになり、軍事競争の馬鹿馬鹿しさが判るようになるだろう。国家のやるべきことは、隣国に脅威を与えて国威を発揚することではなく、国民にサービスを提供することだと理解されるようになるだろう。そうなれば、日本ももう少しましな国になるだろう。

つくば北条の夏祭り [旅行]

つくば北条といっても知らない人が多いだろう。その昔は筑波山の上り口の町で、結構栄えたし、広く水田のある米どころにも囲まれた商業町だった。鉄道が廃止され、筑波山への自動車道は町を迂回したので、いまではかなり寂れている。その昔の面影を残した町並みは郷愁を誘うものであり一種の風情がある。

古い道標がある。正徳年間と言うから1700年代の初めに建てられ、享保に再建されたもので、東はつくば道、西は「つちうら」を経て「かしわ」 南は「おおそね」「いちのや」などと平仮名で書いてある。町の人たちが作ったことがわかる。そう、竜巻の被害に遭った町と言えば思い出すかもしれない。今年は竜巻でやられて八坂神社の祭礼がないので青年会が中心になって盆踊り中心の夏祭りをやるのだそうだ。

北条の盆踊りに出かけてみた。この町に竜巻が何をもたらしたのか見たい思いもあった。竜巻があったのは5月だからまだ三ヶ月しか経っていないのだが、かなり復興が進んでいる。壊れたままの家は一軒しかなかった。更地になっているのが10軒くらい。早くも立て直したと思われる家が10軒くらい。工事中の所もある。竜巻の被害というのは集中的で周りの家には被害がない。一様に広くやられるわけではないから、周りの助けも行き届いて復興がしやすいのだろう。少なくとも町の人は元気で精神的ダメージは少ない。

商店街といっても、営業している店は30軒もあるだろうか、そこに部落中の人々が集まる。何のことは無い。青年会が舞台を設定してカラオケをやったり、同好者の集まりがヨサコイソーランを踊ったりする。あとは屋台が少しばかり出ているだけだが、恒例の大行事なのだ、浴衣で歩いている人、祭りのはっぴを着ている人、行きかう人ごとに挨拶しながら、賑やかに復興祭りが進んでいる。周りの人に挨拶しながら荷物を持った人が家に入って「帰ったよ」と声をかける。祭りの時期に帰省するのが恒例なのだろう。「祭りは、まだこれからだよ」と家人が出迎えている。祭りと言っても観光客をあてにしているものではなく、完全に地元の内輪で行われている。

「どこから来られました?」と声を掛けられること二度三度。我々以外は皆顔なじみなのだろう。よそものはすぐわかるらしい。子どもたちは安っぽいおもちゃを買ってもらったり、カキ氷を食べて楽しそうにしている。夕暮れが近づくと人々は商店街の中ほどに作られた中央舞台に移動する。

北条出身の歌手が町に戻って民謡を歌うのだそうだ。手拍子を打ち、日暮れれまで歌声を聞くと、こんどは盆踊りが始まる。この地方に伝わるひょっとこ踊りのお囃子に合わせて手足を動かす踊りは、なかなか難しいようで、かなりばらばらな踊りだ。ややあって炭坑節が始まると、これは多くの人がうまくリズムに乗って踊ることができるようだ。「なんで、北条で炭坑節なんですか?」と聞いたら、「盆踊りだから」と言う答えだった。盆おどりとは、炭坑節を踊る会だと言う理解らしい。

祭りの囃子を聴きながら、深呼吸をした。ローカルなものを思いっきり吸い込んだ気分だった。日本にはこういったローカル社会がいっぱいある。技術革新だとか、政争だとかと何の関係もなく過ぎていく毎日がある。善良な人々の毎日がある。

2013年の中国旅行 [旅行]

中国・北京に行ってきた。突然の要請で2週間にわたって大学院生に講義をすることになったのだ。夏休みの最中だし、直前に飛行機がとれるものかと思っていたがなんなく予約できてしまった。中国には25年前に行ったきりだし、配偶者は今度が初めてになる。

知り合いに中国に行くと言うと、「大丈夫か?」とか「危ないのじゃないか?」などと言われた。尖閣諸島などを巡って反日感情が高まっているという報道が続いているからだ。

北京空港に着いて、以前の様子が全く残っていないのに驚かされた。空港を出るといきなり高速道路に乗ってしまうのにも驚かされた。前に来たときはローカル空港の雰囲気だったし、空港から市内への道は、照明もすくない、暗い道だったが、女の子を含めた歩行者が道の端を多く歩いていたのが印象に残っている。全くの様変わりだ。

研究所につれて行かれ、そこで毎日、午前中は講義、午後は質問とか議論で過ごしたのだが、学生たちは非常に熱心で、事前に僕の論文なども読んでくれている。昔は、中国の研究者たちは、どこかピントはずれで、常識的な知識に欠けていることが多かったのだが、いまは打てば響くような反応を示すようになっている。おとなしすぎる日本の若者たちに比べて、やはり元気が良い。

週末には北京観光に出かけた。万里の長城とか故宮などの名所は見たいという配偶者に付き合った。相変わらず天安門広場には大勢の人が詰め掛けている。単なる広場なので非常に大きいが、べつに何もない。ところがここがいつも大勢の人で賑わっている。不思議なことだ。中国各地から北京に来た人が、一度は訪れて記念写真を撮る。それだけのことなのだが、中国はやたらと人口が多いから、「一度」だけでも、毎日膨大な数になるというわけだ。改めて中国の大きさに感嘆する。

中国は一つの国であり、日本も一つの国である。しかし、同じく国であると言っても桁がちがうことを念頭に入れなければならない。これを多くの日本人は忘れてしまっている。

外国の観光地と言えば日本人観光客が目立つのだが、北京には非常に少なかった。飛行機の切符が取りやすかったはずだ。中国の人たちは親切で人懐っこい。反日感情が高まっているなどと言うことは微塵も見られなかった。それなのに、観光客が少ないというのは、まるで自分の影におびえているようなものだ。

私たち日本人も、別に中国から来た観光客に意地悪をしたりしない。中国人だって同じことだ。マスコミも変に緊張をあおるようなことは止めてもらいたいものだ。もちろん、日本にだって「ザイトク」なんてアホな連中はいる。日本の場合、経済の行き詰まりを中国などのせいにする風潮が下敷きにあって、こんな連中が出てきたりするのだが、中国からみれば、経済は上向きで、一般の人たちに日本人をことさら悪く見る理由もない。

北京の街の様子は、高層ビルが立ち並び、マクドナルドやKFCが軒をならべ、おしゃれなカフェでギターの弾き語りをやっているといった調子で、全く東京と変らない。25年前とは異なる。しかし、言葉の状況は変っていない。講義は英語でやって、十分通じたのだが、街中ではまったくと言ってよいほど英語が通じない。簡単な単語すらわからないようすなのだ。これは日本の比ではない。

テレビはかなりの数のチャンネルがあるが、全部中国語放送だ。25年前は京劇をやったり、ニュースをやったりするNHKみたいな放送だけだったのだが、今は民放が多く、コマーシャルが入るしバラエティー番組やお笑いもあるから日本と同じだ。ドラマ番組では、メロドラマでさえ、昔の場面になると必ず日本軍が八路軍の急襲で逃げ惑うシーンが出てくるあたりが違うかもしれない。これは国中が日本に踏み込まれての戦争を体験していたのだから仕方がない。日本なら、戦前のシーンでも内地の「銃後」がほとんどだが、中国ではすべての人生が戦場だったのだ。

中国では貧富の格差が大きくなっているという。確かに統計から見ると大きな格差ができている。しかし、北京の町をみてもそれはあまり感じられない。アメリカのようにあちこちにスラムがあるわけでもなく、レストランのウエイトレスなど日本で言えば非正規労働者にあたる人たちもそれなりに暮らしているように見える。中国の格差は都市と農村の間にあるという。都市では総じて収入が高く、農村では収入がないが物価もちがうといったところだろう。周りが全部貧しければ貧しさをそれほど感じない。しかし、都会に憧れ、都市に出て行く若者がどんどん増えており、農村は過疎化しているらしい。

格差の増大も中国の場合は上への広がりで、新しい金持ちが出てきている。下は取り残されているだけで悪くなっているわけではない。60年代の日本もそれに近かったかもしれない。現在の日本は格差が上とともに下にも広がっている。貧しい人の暮らしがどんどんひどくなっているから問題だ。

この旅で改めて感じたことは、世界中人間はみな同じ、どこの国でも同じように人生があるということだ。

温泉に行っても貧乏根性 [旅行]

リウマチ性多発筋痛性の症状が緩和してきて、めまいが少し残っているが、一応の回復を見たと思える。リウマチの痛みは潮の満ち引きのようなものだ。時間が最良の薬といえる。動けない時にはしきりに「温泉に行きたい」と思った。風呂に入って見て、僕の筋肉の痛みには、あまり温泉の効能がなさそうな気はしたが、それでも温泉というと、とてもリラックスできるような気がする。

温泉に行こう。調べてみると一泊二食で18000円位出せば、結構な雰囲気の温泉が楽しめる。二人で36000円位いいではないか。快気祝いは十分これくらいの贅沢に値する慶事だ。そこでさっそくネットから予約しようと思ったら「おすすめプラン」と言うのが目に入った。0泊2食10000円。ほぼ半額である。ゆったりとした部屋に昼食と夕食がついて、温泉にも入ってくつろげる。

温泉までは車で2時間半。夕食後に帰って来るのに問題はない。何もわざわざ泊まる必要はないではないか。一番寝やすいのは自宅のベッドだ。酸素濃縮器や呼吸器を運ぶ面倒もなくなる。「こちらにしようか」と考えてみたのだが、1つ問題が出てきた。昼の食事が重すぎるのだ。昼は蕎麦くらいにしておかないと、夕食のごちそうが楽しめない。

再びネットを検索すると、昼食+温泉という組み合わせはもっとポピュラーだ。あちこちの温泉で、こんなセットがある。値段は8000円程度とさらに安い。実際、もっと安いのもあって、5000円でも十分な気がする。休憩のための部屋など、さして問題ではあるまい。そもそも、畳の部屋なんてのは僕は苦手だ。それより問題は食事の内容だ。どうも、いまいち魅力的ではない。温泉旅館の食事というのは、刺し身、天ぷら、煮物、吸い物と画一的だし、正直、あまりうまいと思ったことがない。

なにも、温泉と昼食をセットにする必要はないのだ。おいしいレストランで食事をして、日帰り温泉に浸かってくればいいのだ。そのほうが、よっぽど楽しめる。温泉に行く途中の街になかなか良さそうなレストランが見つかった。古民家フレンチ。古い趣のある民家で本格的なフレンチ料理を食べさせてくれる。昼食コースの値段は4000円。材料にもかなりこだわっているらしい。口コミでも評判が良い。ありきたりの昼食+温泉セットよりも、はるかに良さそうだ。

これに決めて、朝出かけに、ふと思いついて予約の電話を入れてみた。「今日のランチは、もう予約がいっぱいです」。すっかりあてが外れてしまった。しかし、温泉施設にもレストランはある。結構豪華な食事ができるとホームページに書いてあったように思う。ともかく行ってみようと車を走らせた。高速を降りて、だんだん、農村地帯に入って行く。緑に囲まれた中を走るのは、決して悪くない。

道沿いに、食事のできそうな所もあったが、田舎にはラーメン屋とか蕎麦屋みたいなものしかない。多少遅い昼食になるが、温泉施設のレストランまで食べない。温泉施設は村おこしで、役場なんかが音頭をとってやっているらしい。こういう施設は、かならず、「さわやか」とか「すこやか」「ふれあい」といった名前になっている。ナビで入力するといっぱい出てきて困ってしまう。

到着して、まずは食事だ。贅沢しようというのが元々の趣旨だから、一番高いメニューを注文することに決めてある。しかし「<施設名>御膳」が最上のもので、値段は1000円。18000円の贅沢からスタートした温泉計画は1000円にまで縮小された。つくづく、僕には貧乏根性が染み付いていることがわかった。

それでも、味は悪いものではなかった。本当だってば。まあ、腹が減っていたこともあるだろう。あまり混んではいなかったし、広い湯船は快適だったし、野天風呂からの眺めもよかった。

今回、酸素ボンベを大浴場に持ち込むということをやってみた。カニューラは1.5mくらいあるから、浴槽の淵にボンベをおけば、十分浸かることができる。僕の場合、酸素会社に無理を言って機械式の同調器にしてあるから、湿気に気を使わなくてすむ。電子式でもビニール袋なんかでしっかりくるんでやればいいのではないかと思う。これまでは、酸素をはずして、湯船にそそくさと短時間入っていたのであるが、ボンベがあればゆったりと入れる。大浴場を通り抜けて、野天風呂まで行けば、さらに湿気の心配はなくなる。

結果的には大きな満足が得られた。横になったままの時、元気になったら行きたいと思っていた温泉だ。僕は復活したということが確認できたのである。贅沢というのは、決して使ったお金の金額ではないのだ。そう思ってしまうのが貧乏根性であるならば、僕はそれを素直に受け入れたいと思う。

陸平(おかだいら)貝塚で謡詠み [旅行]

キョウヨウとキョウイクを求めて検索していたら、美浦村で「縄文ムラ祭り」などということをやっている。今日の用事、今日行く所は、これにしようかと考える。合併で、村と呼べる場所が少なくなり、今や貴重な存在だ。

美浦村には、陸平(おかだいら)貝塚があり、国の史跡にも指定されているし、重要度も高そうなのだが、観光資源としては、全く生かされておらず、訪れる人も多くない。僕も、最近まで知らなかった。

祭りの中身は「陸平音頭」「かかしコンテスト」「ハーモニカ演奏」といったもので、典型的なローカル内輪祭りだから、まあ、興味を引かれる行事ではない。しかし、そば打ちなんかもあるようだし、地元の人たちから、貝塚にまつわる話を聞けるかもしれない。

霞ヶ浦の東南に少し張り出した半島のような所は、小高い地形で安中(あんじゅう)台地と名前がついている。ここに陸平貝塚がある。昔はこれほど有名な貝塚はなかった。というか、他の貝塚は知られていなかった。

もちろん、エドワード・モースが、その前に大森貝塚を発見しているが、その弟子たちが初めて発掘した大規模な貝塚が陸平貝塚であり、日本の考古学はここから始まった。大森貝塚は今や跡形も見られず、モースがどこを掘ったのかさえはっきりしないが、陸平貝塚は、今も発掘が行われている「現役」の貝塚だ。陸平式土器でいわゆる縄文のイメージが形成された。

行ってみると、あたりは公園になっており、広場には模擬店のテントが並んで、「そば」とか「もち」が食べられるし、土器製作体験とか、火起こし、弓矢といった子供向け行事のコーナーがあり、結構な賑わいだ。しかし、テキ屋の屋台は見られない。商売には不十分な人出だということだ。

案の定、「どちらから?」と聞かれた。やっぱり、よそものはすぐわかるのだ。「え、そんな遠くから、わざわざ」と言われるのだが、たった20kmのところだ。徹底してローカルなお祭りだとわかる。

村の人に「貝塚を見たいんですが、どこに?」と聞くと「さあ?」と言う返事ばかりが返ってくる。縄文まつりの現場で、縄文遺跡をだれも知らない。村役場の職員らしい人をつかまえて聞いてみたら、遊歩道を歩くのが貝塚散策になるということだった。坂道であり、酸素ボンベを担ぐ身としては多少つらかったが歩いてみた。なんのことはない普通の道だ。しかし、よく見ると道端の土のところどころに貝殻がのぞいている。アサリとかハマグリといった何の変哲もない貝殻だ。

貝塚とは、それだけのものなのだ。「塚」といっても、高松塚とか千人塚などという史跡とはことなり、もともとがゴミ捨て場なのだから、どことピンポイントできるものではない。捨てたのは貝殻ばかりでなく、落ち葉や、野菜くずその他いろいろだったのだが、腐って土にならない貝殻が多く残っているだけだ。このあたり一帯の土に貝殻などが埋まっている。もちろん、掘れば、土の中に貝殻だけでなく、土器のかけらや、魚の骨が出てきたりはするが、掘り返さなければ何も見えないし、掘ったあとは埋め戻されている。なぜ、貝塚が観光名所にならないかと言う事だけは十分理解できた。

昼食は、テントの秋そば、コロッケ、コーヒーで取った。どれも安い。農協婦人部のテントとかいろいろあったが、「謡よみ所」というのが目に付いた。短冊が張り出されている。せっかく来たのだから、一首残して行くかと立ち寄った。メモ用紙に書いて出すと、達筆な人が短冊にしてくれる。ところが、僕の作品は、不合格と返されてしまった。よく見ると、「俚謡」と書いてある。聞きなれない言葉だ。

短歌は、57577なのだが、俚謡は3443345なのだそうだ。美浦村は、全国でも珍しい俚謡が盛んな場所だという。20人以上の会員が、毎月集まって合評会をやっている。地方文化の根付き方がすばらしい。実は、俚謡は江戸時代にはどこでもかなり盛んだったらしい。日本の民謡は、多く俚謡に基づいている。

「草津よいとこ、一度はおいで、お湯の中にも、花が咲く」
「佐渡へ佐渡へと、草木もなびく、佐渡はい良いか、住みよいか」

短歌のような重々しさがなく、リズミカルで軽い。花柳界で都都逸として三味線に合わせて謡われたのも都市部の俚謡だったということだろうか。慣れないので、うまく作れなかったのだが、なんとか短冊に書いてもらった。

むかし貝塚、今でも祭り、集う人あり 陸平

旅行の写真がない理由 [旅行]

このブログの旅行記事には写真がない。旅行記はガイドブックではなく、旅行者の気持ちを綴るのだと言う思いもその理由の一つだが、もう一つには良い写真が撮れていないことがある。良い景色に感銘をうけた時、面白いものを見た時、そんな時にはそれに引き込まれて、写真を撮ることを忘れてしまう。写真を写すのは、大抵、暇な時、くだらない景色の時になる。良い写真が残るわけがない。

最近ではカメラを持たずに出かけることが多くなってしまっている。自分の思い出のためにも、これではまずいと思う。もう少し写真を撮るようにしなければならない。少なくとも、訪れた場所を背景に、自分たちの写真を撮って置くべきだ。そう思うのだが、最近は、「シャッター押してあげましょうか」と声をかけてくれる人が少なくなった。こちらから頼むのも何となく気が引ける。

そこで、セルフタイマーと言うことになるのだが、これがうまく行かない。三脚を持ち歩けばいいのだが、せっかくポケットに入るカメラを持っているのに、三脚を担ぐのはいかがなものか。ポケットに入る小さな三脚を買って見たのだが、これを使うと、ファインダー画面を覗くのに、地べたに腹ばいにならなくてはいけない。僕は、しゃがみ込むことさえ苦手になっている。立ち上がるのに一苦労するからだ。

結局、写真を写すのは、小さな三脚を置く、丁度良い台が見つかった時だけになる。杭の上なんかでは、面積がたりないし、看板には置き様もない。食事の時にはテーブルの上だとお皿がじゃまになる。うまい台が見つかるのはめったにないことだ。

しかし世の中には工夫をする人があって、「自撮り棒」といったものが売られている。伸縮する棒の先にカメラを取り付けて、手元でシャッターが押せる仕掛けだ。しかし、これもなかなか使うのが気恥ずかしい代物だ。こんな物が平気で使えるなら、撮ってくれと頼むことなどわけなくできる。三脚並にかさばりもする。それに、これではファインダー画面が覗けないと言う問題の解決にはならない。見当違いの方角を写してしまう。

またまたアイデア商品というのがある。カメラの前面に貼り付ける小さな凸面鏡だ。カメラを自分の方に向けて、この鏡に写る姿を見れば、間違いなく自分を撮ることができる。高いものではないから、買って試してみた。確かに、自分を写す分には問題がないのだが、メインに後ろの景色を据え、脇に自分と言う構図は難しい。この場合、鏡に写るものと、写真に写るものは大きく異なってしまう。optical leverの原理に従い、鏡に写る方向は2倍にずれるからだ。鏡の中心に見える方向と、自分がいる方向の中点が実際に写真に写る中心になるという面倒なことになる。

どうも、旅行の写真を写すというのは、一筋縄では解決しない問題のようだ。いつも持って歩いている酸素ボンベにカメラが取り付けられないだろうかとか、カメラに鏡を付けて、しゃがまなくともファインダー画面を覗けるようにできないだろうかとか、考えて見てはいる。

(続き)  カメラスタンドの工夫


酸素を担いで石垣島(1)----酸素の準備 [旅行]

寒さもたけなわ。しかし、引っ込んでばかりもおられない。旅に出よう。自由に歩ける時間も限られているから、本を読むのはあとまわしだ。寸暇を惜しんで遊ぶというのも変な話だが、幸い体調は悪くない。暖かい所に旅行すべきだろう。沖縄、辺野古に行って現地の皆さんを激励するべき時期かとは思ったが沖縄には前に行っている。もっと南の石垣島を目指すことになった。

石垣島まではそれなりに遠い。だから飛行機代も安くは無い。韓国のほうが近いのだからこれは仕方がないだろう。安い切符を探すとツアーの方がはるかに安いことがわかった。2泊4食付で、島巡りや琉球舞踊のアトラクションまで付いて飛行機代より安いとは、いったいどういうことだろう。

酸素の問題もあるので、自由が効かないツアーは苦手で、これまで利用したことがない。しかし、実質、団体行動は一日だけだから、これなら問題ないだろう。「酸素がいる人だと航空会社に伝えておいてね」とコメントしてネットで申し込んだ。といっても、旅行社が酸素吸入の面倒を見てくれるわけではない。こちらから航空会社に連絡を取らなくてはならない。日本の航空会社は障害者に親切で専用の電話受け付けもあるし、日本語も通じるから楽なものだ。

ホームページから書式をダウンロードして必要事項を書き込む。これはMEDIFと呼ばれる各国航空会社共通の書式なのだが、日本語で書いてある。本当は医者が書くものだが、こちらで書いて、診察のときに「ちょっとサインしてください」とお願いすると良い。妙に診断書などというと事務に回されて、時間もお金もかかってしまうことになる。日付が出発の二週間以内でなければならないことには要注意で、あらかじめ診察日を調整しておく必要がある。出発の3日以上前にFAXして確認してもらい、現本は出発当日持参する。

機内に持ち込むボンベは、「容器証明(検査済み証)」を付けたちょっと特別なものでなければならないから酸素屋さんに準備してもらう。僕の場合はPOC(携帯用酸素濃縮機)を使うので、機内でボンベはいらないから少し楽だ。しかし、ツアー2日目は、朝から晩まで盛り沢山で6時間のバッテリーで持たないことは確実だ。個人旅行なら、途中でヘタって充電もできるがツアーでは、そうも行かない。現地で酸素ボンベを手に入れなければならない。

日本南端の孤島だ。うまく酸素が手に入るだろうか。酸素会社に連絡してみたら、いとも簡単に「いいですよ、手配しときます」と答えが返ってきた。ホテルに届けておいてくれるということだった。うちの酸素屋さんもなかなかのものだ。そう思っていたら、出発近くになってメールが来た。「宅急便で断られてしまいました。」だとおっ!。

あたりまえだ。どこの運送業者も運送約款にはっきりと、「危険物、高圧ガスは運びません」と書いている。宅急便で送れるくらいなら酸素屋さんに頼んだりしなくても、他の荷物と一緒に送ってしまうよ。どうせ、呼吸器(NPPV/CPAP)なんかも必要なんだから。

どうも宅急便は運送約款を無視して引き受けることもあるらしい。トラックなら「高圧ガス」の標識をつけて、免許をもった取り扱い主任者の監督のもとに運べないこともないが、宅急便がそんな事をしているとは思われない。これは法律違反だ。島の場合、航空機は絶対に受け付けないから難しい。

いざとなったら、途中でツアーからは離脱するつもりでいたからそれほどには動じないのだが、「いまさら、どうしてくれる」と少しごねてみた。石垣島にも在宅酸素の人はいるはずだから、会社は違っても、少し酸素をわけてもらう事くらいできそうな気がする。

結果的には、那覇の支店から、船便で送ることができたらしい。なんとかなるという連絡が入った。出発の4日前のことだ。石垣島の病院に連絡してみるとか、石垣市の障害福祉課に連絡してみるとか、この際、他の人にも参考になるようなことをやってみようかと思っていたのだが、通常の酸素屋さんとのやりとりで収まってしまった。さて、旅行の準備をしなくてはならない。

酸素を担いで石垣島(2)-----ちょっと予習 [旅行]

石垣島が沖縄県の南部にあたる島であることは知っている。しかし、沖縄本島から、400kmも離れていることはあまり意識していなかった。沖縄島よりも、ずっと台湾に近い。日本から見ればまさに辺境の島ではあるが、石垣島を含む八重山諸島の歴史は古い。2万年前の遺跡があり、日本最古の人骨が発見されている。早くから開けた土地なのである。

地理的には中国に近いのだが、古代に大陸との行き来は少なかったらしく、ネイティブのDNA類型は日本型に属している。東北・北海道などと同じく、本土よりも弥生人色が薄く縄文人色が濃いとされている。沖縄が早くから独自に開けた理由には、それが火山島でなく、珊瑚礁の島だったことが挙げられる。平地があり、農耕が出来たからだ。台湾は急峻な火山島であるため、ポルトガル人が来るまで誰も住まない島だった。台湾が間に挟まったことが、石垣島が中国から切り離された要因でもある。

石器時代から、営々と人々の暮らしが続く石垣島・八重山諸島ではあるが、その発展には困難がつきまとった。決定的だったのは砂鉄が取れなかったことだ。中国との交易が始まるまで、石器時代にとどまらざるを得なかった。沖縄本島が中国に朝貢するようになって、鉄器を手にした琉球王朝が石垣島をも支配するようになった。

沖縄本島も耕地面積は大きくない貧しい国だったのだが、そのまた植民地であるから、石垣島は悲惨だった。ペリーが日本に来航する前に立ち寄っているが、八重山諸島の人々は世界で最も貧しい人民の一つと観察している。

人々を苦しめたのは、悪名高い「人頭税」の制度だった。収穫や土地面積に対してではなく、全員一律に米と芭蕉布の物納重税が割り当てられた。自分の食い扶持が無くとも税のために働かされる。奴隷以下の労働だった。それがなんと、明治になっても、1901年まで続いたのであるから驚く。明治政府は石垣島を領土としてしか考えず、そこに暮らす人々のことなど念頭になかったのだ。

石垣の漁民が古くから尖閣にまで出漁していたなどという事を言って国威発揚したがる人もあるが、それはありえない。朝から晩まで農耕を強制されていたのだ。何日もかけて手漕ぎボートで400キロも出かける余裕はない。そもそも漁業という職業は、魚を「買う」人が出現して初めて成り立つものなのである。もちろん海洋王国として栄えたなどいうのは幻想だ。

苦しい生活の中にあって、独自の文化を築きあげてきた石垣島の人々は素晴らしい。古謡といわれる唄をずっと引き継いできた。アイヌのユーカラのように、アカハチの反乱などといった歴史を語るものでもある。これが沖縄民謡のもとになり、今も沖縄は音楽がとても盛んだ。安里屋ユンタは竹富島のものであり、歌手の夏川リミさんは、石垣島で育った。

冬でもきっと暖かい。水牛が歩いて浅い海を渡り、マングローブの林がある。広がる海はこの上なく透き通って、晴れれば満天の星空がとても美しいはずだ。

酸素を担いで石垣島(3)-----初めての「ツアー」 [旅行]

もともと団体行動が好きなほうではないのだが、酸素が必要になってからは、ツアーの強行日程はますます苦手になり、今までツアー旅行はしたことがなかった。今回は、2泊4食付で往復航空券よりも安いという魅力につられてツアーに参加してみた。といっても、ツアー行動は1日だけだ。

普通の旅行は、時刻表とか地図でいろいろと思案するのだが、ツアーの場合すべておまかせで、ナビで運転するようなことになる。こちらも気を抜いて、つい準備を怠ってしまう。出発からして、駅までのタクシーの中で、薬を忘れたことに気が付いて引き返した。他にも色々と忘れ物があった。やはり、チェックリストを作って確認することが必要だ。

石垣島へは直行便もあるのだが、このツアーでは那覇乗り継ぎになっていた。那覇もで3時間なのだけど、家から羽田までの時間を含めるとPOCの電池はあやうい。石垣島に着いてからホテルまでの時間もあるから、那覇での乗り継ぎに2時間とって、この間に昼食しながら充電するという目論見で、一応これには成功した。

羽田空港には障害者用のチェックインカウンターがあり、ここで手続きをするのだが、POCは不慣れで、マニュアルを引っ張り出して参照しながらで時間がかかることが多い。航空会社は極度にマニュアル主義で、それに従ってなにやらコンピュータに打ち込まなくてはならないことが多いらしい。セキュリティーチェックでも止められることが多いので、連絡しておいてくれるように頼む。今回は係員がセキュリティーまで付いてきてくれた。

格安ツアーだから、宿泊はビジネスホテルだ。いくらなんでもそれは味気ないのでオプションで、ホテル日航八重山にしてもらった。朝ごはんつきになるし、バスの発着点にもなっているので、時間と現地交通費のことを考えれば悪くはない。1日目は、ホテルまで行くだけだ。予定通り到着して、ホテルの近くにあるローカル居酒屋で夕食を取った。おいしかったし石垣の物価は安い。頼んであった酸素ボンベも無事に受け取ることができた。

ホテルでの一夜が明けて2日目がツアーだ。7時45分出発だから、朝寝坊の僕にはつらい。一日の強行日程が始まる。6時に起きて朝食を取り、ボンベを担いでバスに乗り込む、港まで行き、西表島までの船に乗る。到着したら、待っていた川舟に乗り換え、仲間川を遡って行く。何が何だかわからないうちに事が進んで行くようだ。なぜ仲間川に入るかというと、この川の両側はマングローブが生い茂っているからだ。

川の中まで根を広げた木が密生している。蛇やヒルがいることを想像すると、足を踏み入れるのも勇気がいる。平地であっても、ここを農地とするのは大変だ。人頭税の時代、人々は税を納めるために、ここで無理やり農耕させられた。ハブとマラリヤが大敵であり、全滅した村もあったと言う。

川岸の船着場に上陸すると、そこにはバスが待っており、島の北側にある由布島近くに行く。由布島は西表島に近接する小さな島で、400mの沖合い、浅い海を渡ったところにある。この島に水牛車で渡るのだ。渡りながら、御者のおじさんが三線の弾き語りをやってくれる。誰もが三線を弾くという土地柄を表している。しかし、うまい人ばかりではない。帰りの御者さんは、かなり音はずれだった。

由布島は蚊がいないため、戦後マラリアを恐れた人たちが移住して、かなりの人口にもなった。 学校や公民館もあったが、度々台風の被害にあって、撤退してしまい、廃村になっている。そこに、南方植物を茂らせ、水牛車で観光地にしたのだ。結構人気があり年間30万人が訪れる。レストランなどもあり、ツアーでは島を散策してここで食事をする。レストランに行くとテーブルにはすでに料理が並べられていた。沖縄風幕の内弁当といったものだ。

水牛車で西表島に戻り、バスで港まで行く。待つこともなく、今度は、竹富島への船に乗る。竹富島に着いたら、またバスが待っており、名所、星砂浜へ連れて行かれて、15分間星型の砂粒探しをした。次なるバスの行き先は旧市街とも言うべき赤瓦の住宅地区だ。赤いかわらを白い漆喰で固めた屋根をもち、石積みの塀が続く街並みだ。魔よけのシーサーもあちこちにある。この町並み見物も水牛車に乗ってめぐる。同じように御者さんの三線サービスがある。しかし、むしろ歩いて巡るほうが良い。

安里屋ユンタを何度も聞かされたのだが、全部「新安里屋ユンタ」だった。原曲に”嬉し恥ずかし 浮名を立てて”などと、ちょっと色町芸者風の歌詞をつけて、昭和の初めにヒットさせた有名な歌だが、原曲はそのような軽薄なものではない。竹富島の安里屋という屋号を持った家の娘、クヤマを歌ったものだ。クヤマは気立てもよく、親孝行なき者で、島一番の美人と評判も高かった。

当時の竹富島は400kmも離れた、沖縄本島の琉球王朝に隷属していた。琉球から派遣された役人である目差主が絶大な権力をもっており、貧しい島にあっては、目差主の現地妻として妾になることが唯一楽な暮らしが出来る道だった。

当然のごとく目差主はクヤマに目をつけて妾になれと言い寄った。しかし、クヤマは目差主の申し出をきっぱりと断ったのだ。ユンタというのは労働歌である。野良で働きながら、クヤマの快挙を讃え、島民の自尊心を歌い継いだのが本来の安里屋ユンタなのである。札束で引っぱたいて辺野古に米軍基地を作らせようとする政府に抵抗する沖縄県人の心意気と通じる。

布島からまた水牛車とバスに乗って港に帰る。連携が取れていて。待つなどということは一切なく高速船で石垣港に帰るのだ。石垣港に到着したのは5時半頃なのだが、ツアーはこれで終わらない。「あじ彩」というレストランでの八重島舞踊を見るディナーショーが付いているし、そのあとホテルでの島唄ライブもある。ツアーとは、実に盛りだくさんで忙しいものなのだ。

酸素を担いで石垣島(4)-----最終日の失敗 [旅行]

ホテルの隣にレストランシアター「あじ彩」があり、ここでのディナーと八重山舞踊鑑賞がツアーのパッケージに含まれている。メニューは決まっていて、豚肉(アグー)と野菜の焼き鍋だ。長いテーブルが並んでいて、宴会風に座る。ほとんどがツアー客だと見えた。舞踊のほうは、なかなか決め所がうまい踊り手でははあったが、年配の人ばかりだった。八重山舞踊というのは、ゆっくりした動きの日本舞踊に近いものだ。カチャーシーとかダンスを思い浮かべると印象が異なる。これには鑑賞眼も必要なようで、かなりの人が途中で退席してしまっていた。退屈としか感じられなかったのだろう。

ホテルのロビーで行われる島唄ライブの方は、ミヤギマモルという人で、石垣島のシンガーソングライターだという。歌声も三線もなかなかのもので、オリジナル曲「やいま」やthe boomの「島唄」などを聞かせてくれた。場所が狭いせいもあり、満席で立ち見の人もいた。人口45000人のところに、何人ものアーティストがいる。石垣の音楽文化の水準は極めて高いと言える。

これでやっとツアーの日程が終わり、大浴場で風呂に浸かって寝たのは、かなり夜更けだった。疲れたかもしれない。翌日は朝から体調不良におそわれた。ちょっと歩くだけで息切れする。しかし、予定通り、午後のフライトまで、川平(かびら)に行って、日本一とも世界一とも言われる美しい海を楽しむ事にした。川平までは、路線バスを使う。体調不良だと思考が働かない。1日券を買えば空港までにも使えて1000円で済んだのに、買いそびれてしまった。

川平は、確かに美しい海で、潮の流れがあるためか、水がすごく澄んでいる。晴れておればさらに素晴らしかったと思われるが、残念なことに天候も下り坂で、ピリピリ雨も降り出した。僕は初めてなのだが、連れ合いは45年前に来たことがあるという。まだ沖縄が「外国」であり、パスポートが要った時代だ。いまでは潮の流れが危険で遊泳禁止になっているが、そのころは泳げたそうだ。初めてへそ出し水着を着たとか言うが、二回目はなかったらしい。おばあちゃんにも、そんな時代があったのだ。

体調不良で、ここでの散策はきつかった。早々と引き返すことになった。ホテルで、昼食を取り、空港行きのバスまで、POCに充電しながら時間をつぶすことになった。酸素ボンベの空瓶を送り返す手続きもしなくてはならない。充電も完了し、そろそろバス乗り場に行こうと思ったら、バスが来てしまったのが見えた。あわててロビーから飛び出したのだが、「石垣空港」と書いたバスは、誰も待っていないホテルの玄関口を通り過ぎて行ってしまった。予定時刻の5分前だ。

これは困った。バスは1時間に1本くらいしかないから、これを逃したら飛行機に間に合わない。しかたなく、タクシーで行くことにした。タクシーに乗って出発したのだが、そこにまた「石垣空港」と書いたバスがやってきた。あわてて、タクシーに戻ってもらったが、手遅れで、今度は本当にバスは行ってしまった。

バスは空港と港を循環している。空港から来て、ホテルで止まり、港まで行ってまたホテルを通って空港に行くのだ。僕らが乗り損なったバスは、港へ行くところだった。僕の勘違いだ。バスが定刻前に出てしまうことはないはずだ。本土と違う景色を見すぎた。ここは沖縄だから乗客のいないバスはさっさと行くなどと考えたのはおかしい。体調不良は思考力の低下をもたらす。

まあ、いいか。タクシーの運転手さんから、石垣Uターン事情なども聞くことができた。石垣島から本土に出て行っても、結局戻ってくる人が多いそうだ。石垣は住みやすいのだ。年をとってから石垣に移住してくる人も多いそうだ。冬でも暖かい気候は確かに心地よい。夏も、風があるから極端に暑いということでもないらしい。結果的に石垣島は人口が増えている数少ない地方小都市になっている。

3日間はあっと言う間の旅だった。やはりツアーは忙しすぎる。石垣島はもっとゆっくり楽しみたい。夕方の飛行機に乗って1時間で那覇、乗り継いで3時間で羽田に着いた。飛行機に座っているうちに体調も回復してきた。羽田から空港バスにのれば、家の近くまで来てしまう。便利になったものだ。

理想の旅は野宿で放浪 [旅行]

色々な旅のスタイルがある。僕の理想はテントを担いで放浪の旅に出ることだった。旅とは自由を求めることなのだ。決まったスケジュールをこなすのでは仕事のようなもので意味が無い。ずっと定年後の自由な旅を夢見ていた。しかし、定年を越えた今、僕は、重篤な病気持ちの年寄りになってしまっている。常に酸素ボンベがいるし、大きな荷物を持って歩くことなど望むべくもない。

それでも旅は、自由を求める気持ちと切り離すことはできない。 飛行機に乗ったり、船に乗ったり、ホテルに泊まったり、色々やってみて、一番自由なのは、やはり車の旅だと思う。重い荷物を持つ体力は要らず、スケジュールに縛られないからだ。ニュージーランドをキャンピングカーで巡ったのは楽しかった。酸素濃縮機や呼吸器は車にセットしたままだから設営も撤収も早い。でも、これを日本国内でやるのは無理そうだ。どこの町に行っても街中に必ずキャンプサイトがあるといった条件は、日本に全く無い。

キャンピングカーと言えども、どこでも泊まれるわけではなく、町から外れたキャンプ場とか、国道沿いなら道の駅で泊まらねばならない。探し回ったあげく不本意な所に泊まるというのが目に見えている。縛りが強いということではホテル泊以上かもしれない。もちろん、キャンピングカーでホテルに泊まってはいけないというルールがあるわけではないのだが、自分で縛りをかけてしまいそうな気がする。だから日本ではキャンピングカーは使わない。どうも、日本では乗用車にテントを積んで、ホテルに泊まったり、キャンプをしたり、両用で行くのが一番自由そうだ。

日本の電源つきキャンプ場は値段が高い。わざわざ人里離れたところまで行って7000円払うなら、そのお金で安いホテルに泊まるほうが、効率は良いし、寝心地は、はるかに良い。キャンプは、景色とか距離とか条件が揃った時だけにして基本はホテル・民宿といったところだろう。旅館も落ち着くのだが、食事が画一的なのが嫌だ。その点ペンションなどは、独自の工夫を凝らした食事を出してくれることが多い。地場の食材を手に入れて、自分たちで料理するのが一番うまい。だからキャンプは欠かせない。

キャンプにはテントがいるが、僕らは25年前の古いハウス型テントをいまだに使っている。最近のテントは全てドーム型でハウス型のものがない。いいかげん新しいものにしたいのだが、それが出来ない。ハウス型というのは、家の形をした骨組みの中にテントを吊り下げるものだ。骨組みの外側にフライシートをかぶせる。ドーム型よりも天井が高いから立ち上がれて居住性が良い。欠点は、骨組みが多く、うちのは鉄製だから重い。しかし、どうせ車で運ぶのだから重くてかさばっても構いはしない。組み立てにも時間がかかるが、まあ、せいぜい10分のことだ。ドーム型はグラスファイバーで軽く5分で組み立てられるが、5分の違いが問題になるとは思えない。

古いテントが決定的に良いところは、雨の日の撤収だ。もちろん無理に雨の日にキャンプしなくてもいいのだが、夜中に雨が降り出すこともよくある。フライシートとテントの間に大きな隙間があるから、テントが濡れることはない。ハウス型テントは、フライシートで自立しているから、テントを濡らさないままでたためる。人も濡れない。そのあと、フライシートをはずして、最後に骨組みを分解する。骨組みは濡れても拭けばいいだけだ。テントをはずした後のフライシートの下の空間は、色んな後片付けに便利だ。ドーム型テントの雨の中での撤収は、ずぶ濡れで、考えただけでも惨めだ。晴れの日専用のテントばかりと言うのもおかしなものだと思う。

いかんともしがたいのは、僕には電源がいることだ。本当は電源付きのキャンプなんて邪道の極みなのだが、酸素濃縮機と呼吸器はどうしても必要だから、テントに電源コードを引き込むしかない。邪道ついでに、寝心地を追求することにしている。キャンプには寝袋と決めてかかっている人もいるが、僕らは布団を持っていく。しっかり布団を敷けば、テントであろうとスイートルームと変わらない。5人用テントを2人で使うから、ゆったりと寝られる。これも車に積んで行くのだからこそ出来ることだ。

寒さに縮こまりながら、もう少し暖かくなった時の旅を夢見ている。体調の上がり下がりが実は一番の問題だ。体調悪化で入院したりすることにでもなれば、どんな計画も一瞬でつぶれる。そのため、自重して、出かけないでいる。インフルエンザの時期、人ごみは禁物だ。

初めての海外 [旅行]

僕の初めての海外行きはアメリカだった。それまで特に海外とは関係の無い分野におり、外国に行きたいなどと思ったこともないのだが、休職出向でアメリカで働くことになってしまった。準備もくそもなくいきなりの出発だからガイドブックも全く読んでいない。おまけに「すべておまかせ」を決め込んでいる女房と3ヶ月の娘を連れての旅だから緊張は甚だしかった。

まだ成田は開港しておらず、羽田からのパンナム便だった。航空運賃は極めて高く、片道で合計80万円もしたと思う。後で赴任旅費が請求できるはずだとは思っても、ずっしり堪えた。時差による体調不良を懸念して、いきなりシカゴまで行かずにホノルル->サンフランシスコ->シカゴのルートをアレンジしたが、よく考えて見れば、ホノルルが一番時差が大きい。

一番心配したことは英語が通じるかどうかだ。ホノルルでタクシーに乗り、「Please go to xxx hotel on yyy street」と言って、タクシーが無言で走り出したのでホッとした。今思えば多少変な英語だ。こんな時please文は使わない。タクシーの運転手もこれであまりベラベラしゃべる相手では無いと気付いたのだろう。

ハワイは観光地であり、ここに2泊したのだけれど、結局観光をする余裕はなかった。生活習慣の違いにとまどい、なんとか食事をするだけでせいいっぱいだった。実際、生後3ヶ月の赤ん坊に対しては、日本にいてさえオロオロする状況だったのだから余裕がないのは当然だろう。

サンフランシスコについたとたん、空港ロビーでの捕り物に出くわした。サンフランシスコへはバスで行ったが、バスディーポでは切符の販売所が何重にも鉄格子を張り巡らした構造になっていて、治安の悪さを見せ付けられるようで、配偶者は赤ん坊を抱いて固まってしまった。だからサンフランシスコでも観光はしていない。

目的地のシカゴに着いたらいきなり仕事が始まってしまった。日本人はよく働くから感心するよなどと最初に言われてしまうとサボるわけにも行かない。というか、言葉が良くわからない分だけ余分に働かざるを得ない。口でごまかすわけに行かないから、データを沢山出して納得させるしかないのだ。シカゴは観光地ではないが、全く見物はできなかった。

給料は出るのだが、アメリカではとんでもない税率で課税されて支給される。実は年末の確定申告でかなり返ってくるのだが、知らないから耐乏生活を覚悟した。おまけに、赴任旅費は出ても、帰りは勝手に帰れと言われて、帰りの航空運賃を貯めないと、日本には戻れないと言うことになったから大変だ。アメリカには退職金などという制度はない。

やれば出来るもので配偶者は一日3ドルで暮らす計画を立てて実行した。スーパーマーケットの食料品はかなり安いし、消費税も少ない。ガレージセールとか利用すれば家具や日用品も安く買える。アメリカは格差社会なだけに、先進国の常で、一般的には何でもお金がかかるのだが、格差の下の方の人も何とか生き延びる手立てが用意されている社会だと言うことがわかった。

一年経って、もう一年契約が延びることになった。税金が返ってきたし、帰りの切符代は貯まったしで、急に生活は楽になった。しかし、定着した生活習慣と言うのは変えられないもので、やっぱり貧民生活が続いた。それでも、気分的にはもう決して貧しいものではなかった。ついに観光の機会が訪れた。

アメリカでは出張の合間に、現地で休暇を取ることが認められる。出張でサンフランシスコに行き、休暇を取ってロサンゼルスまでドライブした。モントレーの松の木がある海岸で、この海の向こうは日本だと感慨深かった。ロサンゼルスでは勿論アナハイムに足を伸ばしてディズニーランドを楽しんだ。我々の子どもの頃は、ディズニーランドと言えば、雑誌の懸賞で一等に当たって行ける所であり、現実的に行くことを考える対象ではなかった。大の大人ではあったが、ディズニーランドに実際に行けたことは、大きな感激であった。

旅行は楽しい。結局3年間日本には帰らなかったが、夫婦で全く見知らぬ所に行き、新しい体験をする楽しさを味わった。結局は観光地にも行けたし、旅行は楽しいものであると知ることが出来た。年を取ってまだ旅行を楽しもうとする原点はこの最初の海外体験によるものだと思う。

お花見で沸かすコーヒー [旅行]

キャンプで活躍するのがストーブないしバーナーと言われているコンロだ。最初に手に入れたのは「OPTIMUS」というスエーデン製のものだ。学生時代に山岳部の友達に教えてもらった。3畳一間で炊事場もない下宿で鍋をしたり、ラーメンを作ったりした。小さく折りたためてゴーゴーと音をたてて強力に燃えるが、使い方は多少面倒だ。固形燃料を使って余熱し、それから火をつけなければならない。

結婚して家族でキャンプをするようになったが、ストーブひとつでは足りず、焚き火をするようになったから、あまり使わなくなった。仕事で崩壊直前のソ連に行った時にソ連陸軍仕様のストーブを5ドルで買い足した。ルーブルが極端に下落していたのだ。これは、手で温めて燃料をあふれさせて、それに火をつけて余熱するから、固形燃料を用意しなくて済む。しかし折りたためる構造になっていないからかさばるのが難点だ。

ストーブ二台体制でのキャンプもやったが、そのうちに家庭用のカセットコンロが出回り出した。燃料も安いし、使い勝手は格段によい。車に乗せるのだったらかさばってもかまわないのだから、キャンプ用のストーブは全く必要のないものになってしまった。カセットコンロは値段も安いのだから、わざわざ高いキャンプストーブを買っている人の気が知れない。

丁度お花見のシーズンである。この地方で古くから知られている桜の名所、北条大池にお花見に行った。お弁当を持っていくのだが、やはりコーヒーが飲みたい。しかし、どうも「人目」が気になってしまう。カセットコンロを使って薬缶でお湯を沸かせているとジロジロ見られてしまうのだ。もちろん、焚き火は禁止だろうし、火を用いることも、はばかられる様子だ。

実はこのために秘密兵器を用意してある。アルポットというアルコールランプ内臓ポットだ。中でアルコールを燃やすのだが、見ただけではわからない。これならどこででも使える。旅先で、美しい景色を味わいながら飲むコーヒーは格別な味がするから、車に積んで持ち歩くことにしている僕のお気に入りだ。今回もこれを使った。

アルポットには、お湯を沸かす容器が円筒形であるという問題があった。コーヒーを淹れるために、ドリッパーにお湯を注ぐと、一応注ぎ口はあるのだが、ドバッとコーヒー粉が飛び散るくらいにお湯が出てしまう。そのため別にかさばるサーバーを持ち歩いたりしていたのだが、今回、思いついて、フタをしたまま注いでみた。すると実にうまく注げるのだ。手でフタを押さえると熱いのだがハンカチとかを介して押さえれば問題はない。新発見が嬉しい。

めまいが復活し、ヨタヨタとしてなかなか歩行もままならないのだが、車から大池の桜までなんとかたどり着き、満開の桜に囲まれて、お弁当を食べた。池の周りを取り囲んで、水面にも桜が映っているのは見ごたえがある。何年か前に来たときは、桜の木が老齢化して花が少なかったのだが代替わりしたらしく元気に咲き乱れていた。検査結果も思わしくない数値なのだが、ここでコーヒーを飲めたのは大きな満足だった。コーヒーで元気付けられて、池を一周できた達成感もある。

大池を囲む桜のあでやかさ病忘れてコーヒーを飲む

夏は過ぎ秋はまだ来ず旅の宿 [旅行]

連れ合いはBRDからKD療法に変わり副作用が治まっている。これで効いてくれればいいのだがまだその効果はわからない。ともかくもレブラミドを止めたことで、副作用にさいなまれることは少なくなっている。本を読む気力も復活して、読書で日を過ごすことが多い。

まだ歩くのは楽でないが、副作用の谷間の機会に少し出かけて見たい。僕のほうの足腰が弱ってきていることを切実に感じているから、多少の無理をしても、今のうちに出かけなくてはいけないと思ってしまうのだ。調べて見ると休暇村奥武蔵がこの月曜日だけ空いていた。あまり乗り気ではない連れ合いを説き伏せて出かけることにした。

子供たちの夏休みも終わった。川遊びや渓流釣りでにぎわった甲州街道沿いの谷間も人波は途絶えている。雨が多いし川の水に入るのはちと冷たい。かといってもちろん紅葉には早すぎる。休暇村奥武蔵の近く、巾着田と言われるところは、初秋に曼殊沙華の群生することで有名だ。ところが、これもまだ少し早いようで、今年はまだ咲いていない。

何もあてはないのだが、ちょっとした御馳走を食べてゆっくりとしてみる。それも悪くないだろう。出かけるなどと言うことができるものかどうかを試してみるという意味合いもある。彼女はコルセットで身を固め、シニアカートを押す。僕はあちこと痛み止めの膏薬を貼って酸素ボンベを担いで杖をつく。携帯用酸素濃縮器、呼吸器、多種の薬、車に積み込む荷物は結構多い。

ムーミン公園や博物館など寄り道をして行こうと思っていたのだが、小雨が降って来た。博物館・資料館の類は月曜日が休みだった。道理でこの日だけ部屋が空いていたはずだ。休暇村というのは設備が整っているのにリーゾナブルな価格設定で人気があるから、先まで予約が詰まっているのが普通だ。早々と到着してしまった。

町村合併で市になっているが、深山幽谷谷間の村と言いう景色だ。落ち着いてのんびりしよう。部屋に入って窓から眺めていると、次々に宿泊客がやってくるのが見える。年寄りばっかりだ。夏の観光シーズンも終わったし、秋の旅行シーズンはまだ始まっていない。平日だし、まあ、家族連れや働き盛りが来るわけはないよな。年寄りばかりの客層に違和感を持つのは、旅は若者のすることと言う偏見があるからだ。

その昔、僕が若者として旅をしたころは、どこへ行っても若者ばかりだった。駅は「カニ族」などと言われる背中にリュックを背負った若者であふれていた。僕らが子供たちと旅行した頃には、どこも家族連れが目立っていた。順繰りに年を取って、今は出かける年寄りの群れになっているのか。やはり団塊の世代は人口が多いのだろう。それにしても、大浴場に入った時に目にした、洗い場にずらりと禿げ頭が並ぶ光景は異様だ。思わず身を引いてしまった。

良かったのは食事が素晴らしかったことだ。東京からも日帰りの圏内だから食事が悪ければ誰も泊まってくれないから力を入れているようだ。会席料理なのだが、ごく丁寧に作ってある。それにバフェがプラスされていて、寿司やうそん、その他の料理も食べられるし、デザートもやフルーツもたくさんある。このところ全く食べられず6㎏も痩せた連れ合いだが、食欲も回復しており、久しぶりに「美味しい」いう言葉を口にした。

休暇村はバリアフリーになっている。杖をついた人も多いが、車椅子の人も少なくない。中には車椅子ばかり4人というグループもいた。車椅子を使うようになっても、臆面なく旅に出かけるという文化。僕らの世代がこれを切り開いたとしたら、それは誇るべきものの一つだろう。
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