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僕のコンピュータ遍歴 [日常生活]

ThinkpadX260を買って2週間、やっと使える状態になった。慣れないWindows10に戸惑ったのだけど、どうやら使えるようになった。横長の画面に違和感があったのだが、2つのアプリを並べて使うのだと納得した。画面の解像度が上がったせいだ。SSDを積んで9万円台で買えるとは驚きだ。何が安くなったといって、コンピュータほど安くなったものはない。40年前なら10億円は下らなかった。

40年前に盛んに使っていた高価なコンピュータHITAC8800は、メモリーが750KB。今から思えば非力なものだが、全国大学共同利用のありがたいものだった。アメリカで愛用したPDP11のOSは28kBでしかない。

僕は昔からのコンピュータユーザーなのだが、パソコンを使いだしたのはそう古くない。1982年には日本でもPC9801などといったパソコンが普及しだしてブームになったが、僕はこういったパソコンを使わなかった。電話線を通して研究所のコンピュータにつなぐことができたから、ちゃちなパソコンを使う気にならなかったのだ。最初からネットワーク指向だったわけだ。

当時、電話線に機器をつなぐことは許されていなかったので、音響カップラーを使った。電話機にピロピロと音を流して通信するのだ。Scilent700とかいうカバンくらいの大きさの携帯用端末を愛用していた。電話の受話器を載せて使う。こんな風にコンピュータを使っていた人はあまりいないだろう。主として使っていたのはVAX11だ。

しかし、新幹線の中とか、通信回線のないところもあるので、非力でも小さなコンピュータがあれば便利だと思っていた。見つけたのは、PC8201というハンドヘルドでメモリーは8KBだったが、RS232Cを持っていて通信端末としても使えた。A4サイズノートパソコンの元祖だろう。6行くらいの液晶窓しかなかったが、BASICでプログラムもできたし、英文ならどこでも原稿を書けたので重宝した。僕にはコンピュータ はポータブルに限るという概念が固まった。

僕が本格的にパソコンを使いだしたのは、10年も経た1992年のPowerbook-duoからである。持ち歩ける大きさで、白黒画面なのだが、ドッキングステーションに入れると、フルパワーのパソコンになる。それでもCPUは33MHz、メモリーは8MBしかない。通信機能を備えたパソコンとしてはマッキントッシュが一歩先んじていた。インターネットが普及する前から、アップルトークというネットワークが普通についていたからだ。windowsの方は、windows3では使い物にならず、ネットワークに対応しだしたのはwindows98からである。

1997年にはPowerbook2400Cに替えてカラーの画面になった。180MHzのCPUで80MBのメモリー1.3GBのハードディスクがついていた。これ以上望むものはないと思えるほど強力なPCだと感じた。MacOS8.1も非常によくできたOSで、ClalisCAD、MacDrawPro、Mathematicaといったソフトも入って、この上なく便利だった。これ一台あればどこでも仕事が出来た。 年に3ヶ月くらいをアメリカで暮らす、 行ったり来たりの生活だったが、大荷物を持ってあるかなくてもこれ一台でオフィス の移動が出来るのは実に快適だった。

パソコンとはすなわちマックだというのが変わったのは、2000年にアップルが68000系のcpuを捨ててPowerPCになり、OSも変わってしまって、いままでのソフトウエア資産が使えなくなってしまったことがきっかけだ。とりわけCAD系のソフトがなくなったのが痛かった。 これまでのmacのソフトを使うにはwindowsマシンにBasiliskIIなどのマックエミュレータを入れるしかないという奇妙なことになったのだ。

PB2400の後継機が出なくなった ことも大きい。最初いかにもちゃちだったwindowsも2000になって、信頼できる ものになったし、なにしろハードが軽くて安い。DOSVマシンには各社の競合があったからだ。ソニーのVAIO505でWindows2000に替えた。 CPU133MHz、メモリーは64MBだった。

ソニーもその後505後継機が振るわなくなった。軽いという点ではパナソニックに及ばなくなってしまった。パナソニックLet's note CF-T2に変えたのが2004年だ。2008年にはCF-T8になって、windowsVISTAになったが、これは良くなったと感じなかった。CF-T2のディスクが壊れたのだから仕方がない。CF-T8は、8年も使うことになった。このあたりで必要性があるPCの進歩は止まったように思う。

こうしてみると僕はパソコンを平均5年ごとくらいにとり替えている。一昨年、このCF-T8が、スペインで荷物とともに泥棒に盗られてしまった災難で、もらってきた古いTinkpadX32を使うことになった。2005年のモデルだがメモリーを増設したら、実に使いやすかった。しかし、XPは排除される運命にあったし、2GBでは新しいOSは積めない。

2016年からはThinkPadX260を使うことになる。64ビットマシンだし、メモリーは4GB、250GBのSSDを備えている。往年のスーパーコンピュータだが、今では普通のパソコンでしかない。

「どうせ」を拒否して投票に行く [日常日記]

今日は参議院選挙の投票日だ。自民党が過半数を制するなどと言われて盛り上がりがない。どうせ、選挙で世の中は変わらないとしらけている人が多い。だが僕は「どうせ」という言葉が嫌いだ。僕も重篤な病気を抱えている身なのだが、どうせ病気だから助からないなどと考えることは拒否することにしている。

人間は、どうせ死ぬのだ。これは初めから決まっている。しかし、人間は死ぬまでの間、せいいっぱい生きるのである。「どうせ」を拒否するところから、すべての人生は始まる。

僕は日本の社会が順風満帆だとは思っていない。年金はどんどん消えていくし、若い人たちは働く場がない。どう考えても、社会は落ち目で下降線をたどっている。マイナンバーや秘密保護法などで自由が削られ、自由闊達な社会は失われつつある。社会は間違った方向に進んでいる。

社会の方向を変えるには政治を変えるしかない。しかしながら、政治はなかなか変わらない。安直に政治を託せる力と理念をもった受け皿がないのだ。ここで「どうせ」とあきらめてはいけない。たとえ、いま変わらなくても、あきらめずに投票する人間がいることが大切なのだと思う。それが、やがて「どうせ」を振り切る力になる。

日本を戦争に引きずり込む戦争法案には反対だ。原発に依存する社会から脱出しなければいけない。世の中の格差の広がりはひどすぎる。会社ばかりが儲かり給料が増えないのは間違っている。税金は庶民の消費税でなく、金持ちや、大儲けしている会社から取るべきだ。

こうした基準で考えると、今回、僕の票の受け皿としては、日本共産党とするのが素直だ。比例区では、多少票が生きるかもしれないが、ここの地方区で共産党が当選するとは思えない。しかし、それは問題ではない。あきらめずに、自分の意見にしたがって素直に投票し続ける。これが「どうせ」を拒否する生き方なのだと思う。

転倒して骨折 [療養]

肺ガン執行猶予中の身ではあるが、体調は悪くない。さっさと歩けるから杖なんかいらないと言う気分だが、車の足元には杖がある。自宅に戻り、車から降りようとして、ドアを開けたら、この杖の片端が飛び出したらしい。足を引っかけて転倒してしまった。

顔面と左腕をコンクリートの床に、したたかぶつけたようで、メガネが壊れ顔面にも血が出ていた。しかし、痛かったのは左腕のほうだ。しばらく、地面に寝転がったままで、うめいていたが、なんとか立ち上がって家に入ることができた。

夜になっても痛みは取れず、翌朝、整形外科に行ったら、レントゲンを撮られ、左腕の関節が壊れていることがわかった。3か所ほど亀裂が入り、少し隙間が開いている。もともと、リウマチで変形して、動きが悪かったのだが、ステロイドで骨粗鬆症にもなっているに違いない。打った拍子に割れてしまったという感じだ。

普通なら手術するそうだが、僕の体は手術に耐えられる状態ではないから、ギブスで固定して癒着するのを待ちましょうと言うことになった。関節はさらに動きにくくなるらしい。ぶ厚い湿布薬のようものを肩から手首まで貼り付けて、包帯をまく。しばらくすると熱くなってきて、コチコチに固まってしまった。

一か月に及ぶ片手生活が始まったわけだが、人間にはなぜ腕が二本あるのかが、よくわかった。これほどまでに不便とは思わなかったのだ。今も片手で入力しているが、もどかしい遅さだ。それは、まだいい。cntl+alt+f5となるとお手上げだ。食事は片手でも食べられないことはないが、蕎麦をすする時にはおおいに困る。

服の脱ぎ着も問題で、まだ動かすと痛みもあるから、着替えの度に大騒動になる。胸のボタンはもちろんだが、靴下一つにしても片手で履くのは、なかなか出来そうでできない。すっかり、連れ合いに介護されてしまっている。しゃくだが、仕方ない。問題はトイレの時だ。ズボンを引き上げてボタンを留めるのは至難の業だ。男性トイレに来てもらうわけには行かないから、外出先でトイレに行かなくていいようにしなくてはいけない。

それにしても、なぜ、もう少し用心深くしなかったのかが悔やまれる。ギブスをしたままでは、温泉にも浸かれないし、車の運転も出来ない。助手席に座ってさえも、シートベルトに手が届かない。体調は悪くないのに、この夏の計画も全て御破算だ。実に悔しい。9月に予定している太平洋横断航海までにはなんとかギブスが外れると期待したい。

片手生活3週目 [日常日記]

転倒による骨折から3週目、片手生活が続いている。「私は夫を介護している優しい奥さんなのよ」と、自慢げな連れ合いの目つきに、悔しい思いをさせられるが、ある程度事実なのだから仕方がない。

しかし、人間は思いのほか順応性があるものだとわかってきた。最初は介護されまくっていたのだが最近はずいぶんと自立して来た。靴下をはくなどと言うことも、最初、どうしても足先を靴下に入れることができなかった。要は工夫だ。手を靴下の中に入れて、親指と小指を大きく広げれば入口が大きくなる。ここへ足先を合わせて、手とすり替える。これで靴下が履けるようになった。

車のシートベルトは、座ってしまうと、右手では届かないのだが、座る前に引き出して、左手のギブスに引っかけておけばよい。手順を考えることが必要だ。難関だったのは、ズボンをはくことだが、両手でないと、どうしても片側しか引き上げられない。もう一方に手を伸ばすと反対側がずり落ちてしまう。これは壁をうまく使うことで切り抜けられる。引き上げたほうの腰を壁に押し当てて、ずり下がりを防いでおいて、もう一方を上げる。チャックを引き上げて、最後は片手でボタンを留めなければならないのだが、練習したらできるようになった。

もともと、僕は不器用な方ではない。連れ合いが広島に届けるのだといって千羽鶴を折っていたが、僕は片手の掌で鶴を折ることに挑戦して見事成功した。ただ、時間はかかる。このほうが、心のこもった折り鶴であることは間違いないだろう。

歩行が安定しないから、また転倒しないために杖がいるのだが、右手を酸素ボンベに取られたら杖が持てない。片手だけで酸素ボンベを背中に背負うのも大変だったが、やはり、壁とか車の車体を利用すればなんとかなった。コンピュータのalt+shift+f5なんかは、alt+shift+Aに置き換える設定をすればよい。工夫すればなんとかなるのだ。

片手だってなんでもできると言いたいところだが、そうもいかない。ナイフとフォークの食事はダメだから、箸を使うのはいいとして、蕎麦をすする時、左手に出汁椀を持たないのは、蕎麦っ喰いの僕としては、何とも惨めだ。シャワーで右腕を洗うのは原理的に無理だし、車の運転はどうしても危険だ。結局助けてもらう局面は少なくない。

工夫と練習で補えても、問題は時間がかかることで、これはどうしようもない。出かけるときは急ぐから、配偶者がしゃしゃり出て、服を着せたりするが、なされるままだ。ギブスがとれるまで忍の一で過ごすしかない。それにしても、もう少し用心しておれば、転倒しないで済んだのにと思うと後悔は大きい。

片手生活がいつまで続くのだろうか。それを思うと気が重い。通院日で、SCC腫瘍マーカーがまた少し上がって2.7になってしまったのも気になる。ものごとは、なかなか順調にはいかないものだ。