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高校入試への疑問 [日常日記]

我が家の近くには、大手の塾が軒を並べている。送迎バスや自家用車で夕方はかなりにぎあう。高校入試対策らしい。毎年、3月には「成果」を競う折込広告が多い。

僕はどうもこの高校入試をめぐる騒ぎに違和感を覚えて仕方がない。大学入試はわかる。それぞれの大学によって学ぶことが異なり、適性もあるだろうし、人数の制限があるのも致し方ない。しかし、高校では皆同じことを学ぶのである。入学する生徒を選抜する必要がどこにあるのだろうか。難しい高校でも易しい高校でも、学習指導要領で教えることは決められており、決して高校レベルを超えた授業内容になることはない。

では、一体何のための入学試験騒ぎなのだろうか。なるほど、難しい高校には、いい大学に進学する生徒が多い。しかし、難しい高校に入れば、いい大学に入れてもらえるわけではない。他の子がどこに進学しようが、当人には関係のないことだ。

難しい高校と易しい高校では進度が違うということだ。進学校では2年生までで、3年分の過程を終える。で、あとの1年は、新しい事を学ばず、試験の練習で足踏みして過ごすのである。どう考えてもこんな教育が良いとは思えない。実はうちの子供たちもそういった高校に入れてしまった。じっくり教えず、先へ飛ばすばかりで、わざわざ数学嫌いを作るようなものだ。おかしな教育法と言うしかない。

当然ながら、高校入試などということに熱狂するのは日本独特の現象だ。少なくともアメリカでは高校入試などと言うことはない。義務教育ではないが、希望すればだれでも地元の高校に進学できるようになっている。それで何も問題はないのだ。立派な科学者も多数輩出している。

実は日本でも昔は高校入試などたいした問題でなかった。新しい憲法ができて、民主主義が国の基本となったとき、学制も変わって、中学までが義務教育となり、新制の高等学校も出来た。高校は3原則に基づいて作られた。それは、男女共学、総合制、小学区制というものだった。アメリカの制度をそのまま受け入れたものだとも言える。

それまでの教育は複線式で、小学校以上は、専門学校や中学校、高等小学校、陸軍幼年学校といった具合に、格差を前提として職業別、階層別に分かれていた。それを高校まで統一して、だれもが多彩な進路を選べるようにしたのだ。小学区制で行く高校は決められており、序列などはなかった。

なぜ高校3原則が崩れていったのかよくわからない。有力者と同級生といったつながりが重要なコネ社会が続いたからかもしれない。あるいは、地元での恰好よさを求めて、差別化を望む国民性だったかも知れない。競争が学力の向上を生むといった信仰のせいかもしれない。ともかく、高校3原則は崩れて行き。現在の入試制度になっている。

僕が育ったのは京都府の田舎で、一番長く高校3原則を守ったところだ。当時の京都府知事は蜷川虎三という反骨魂の塊のような人だった。なにしろ長い就任期間の間、一度も東京には陳情したことがないというくらいだ。「15の春は泣かせない」と、徹底的に高校入試の強化に反対した。政府の言うことは全く聞かない知事だ。

町には2つの高校があったし、近隣の町までもそう遠くはなかったのだが、進学先はきっちりと住所で定められていた。いちおう入学試験というのはあったのだが、競争はなく、よほど勉強をサボっていなければ、合格した。中学生の時は、無線や模型工作でのびのびとすごせた。僕や友達なども合格発表など見に行ってもいない。高校には入れるのがあたりまえだったからだ。

当時、大学進学率は30%以下だったと思う。高校での友人の多くは大学に行かずに就職した。こうした多彩な友人を得られた事も小学区制の高校の良いところだと思う。他県の進学校から来た大学の仲間達はみな交友の範囲が狭い。

競争がないと学力がつかないというのは完全な誤りだということを身を持って体験している。競争ではなく、学問への興味で勉強した。だれでも入れる高校ではあったが、大学進学の成績は決して悪くなかった。東大5人、京大5人、阪大3人というのがその年の合格者数だ。今や地方小都市の高校では、いくら厳しい選別で高校入試を加熱させていても、これだけの進学成績を挙げているところはないだろう。高校の序列化で競争をあおることには何の意味も無いことがわかる。

15歳の段階で、子どもを無意味で奇妙な競争に駆り立てる高校入試というのは、実にバカバカしいものだ。

外洋フェリーで車ごと移動する旅(2) [四国旅行]

九州四国を車で巡るという壮大な計画を立ててみたが、結局縮小して四国だけを巡ることにした。検査結果は思わしくないのだが、不思議と体調は良い。この旅行の徳島まではフェリーだ。日本のフェリーが寂れていることを書いたが、東京から徳島のフェリーは、新造船が就航したばかりで、気持ちよく乗れることを期待して申し込んだ。当日になって、シケで船足が遅く、3時間ほども到着が遅れそうだという「親切な」電話が入った。やはり乗客は少なそうだ。

夜出て、到着は翌日の夕方なのだけれども、船内に食堂はない。食料持参で乗船する。酸素ボンベ3本、酸素濃縮機、呼吸器、それに途中でピクニックすることも考えて、テーブルや椅子まで積み込んだ。車だから荷物はいくらでも積める。これがフェリーの良いところだ。新造船は「シンプルフェリー」と銘打って、2等船室しかない構成だが、体が不自由だと言えばバリアフリールームを用意してくれる。ベッドがある2人部屋なのだが、特に費用はかからない。隣にバストイレもある。

船内は、広くゆったりとしていて静かだし、落ち着いた雰囲気だ。定員148名だそうだが、乗客はざっと数えて30人。トラック輸送に使われているのだが、どうも運転手は乗らずトラックだけを運ぶようだ。だから乗客は乗用車の人達ばかりだ。自転車で乗る若者もいるが、どちらかというと年配者が多い。ロビーには色んな自動販売機が並んでいて食堂の替わりになる。電子レンジがあり、お茶や調味料などはサービスされるから不自由はない。

シケで揺れることを覚悟していたのだが、それほどでもなかった。寝ていたからわからなかったのかも知れない。夜が明けて紀伊水道を通ってからは、波静かなものだった。暇な時間が長いのだが、たまにはこうして、のんびり過ごすのも悪くない。

陸地からそう遠くないところを航行するので、ネットはつながることが多い。窓際でコーヒーを飲みながらパソコンを開いてこうした文章を書いたりした。のんびりと過ごせるから高速道路をひた走るよりも、はるかに楽だ。

電話での申し込み受付は平日の午後3時までしか開いていないという交通機関として考えられないような古い体質を残したままだということで驚いたのだが、フェリーの旅は、効率とか急ぎとかを超越していると理解すべきだ。

徳島に着いたのは四時。鳴門の渦潮とか大塚国際美術館の予定には時間が遅すぎた。鳴門海月と言うホテルに直行した。二人で11,000円の安い部屋に泊まったのだが、ぬるい目の温泉が良かった。サービスの点では、いまいちではあった。

連休明けのオフシーズンではあったが、人出は少なく、鳴門の渦潮も、観光の目玉としては人気もたいしたものではないように思えた。渦潮の規模も、そう大きなものではなく、陸から見れば、ただの白い波でしかない。遊覧船にのって近くで見ると、なるほど渦だとわかる。四国本土連絡橋が出来てからは、橋の上からも見えるようになったので、ことさら船で観るひとも少なくなったのではないだろうか。

実はその昔、自転車で来て、フェリーからこの渦を見たことがある。僕も元気だったわけだ。

寂しい四国の東海岸 [四国旅行]

鳴門の渦潮を見て南に下る。大塚国際美術館は日本一高い入館料を取る美術館なのだが、人気はなかなかのものらしい。世界の名画が、全て見られるというのだが、本物の作品は一点もない。名画の複製が置いてあるだけだ。今回はパスすることにした。

徳島県は人口が北部に集中している。四国の東海岸は、阿南市から室戸岬まで何もない寂しいところだ。120kmにわたって、ただ海岸が続くだけで、人口一万を越える町はひとつも無い。歴史的にも注目されたことがなく、室町時代に、畿内の木材が枯渇して、この地方から木材を切り出したことがあるだけだ。どこも、田舎の町には、古くからの暮らしがあり、誇らしげに「郷土博物館」などがある。しかし、ここにはそれを1つも見つけられなかった。平地がないのでは住みようがない。魚を買う人がいないのでは、漁港も成り立たない。美しい海岸ではあるが、観光の目玉がないから人は来ない。

田舎暮らしにあこがれる人が多いそうだが、それにはここが一番いいのではないだろうか。田舎であるという点ではまったく申し分がない。しかし、田舎暮らしは楽ではない。意外な事実としてわかったことは、田舎暮らしには金がかかるということだ。交通は不便だから、絶対車がいる。ガソリンは異常に高い。スーパーに売ってある食料品まで一様に高い。食品も工業製品であり、流通経路の末端にあるからだ。野菜も最近は輸入や遠隔地を産地とするものが多いから当然高い。無農薬野菜などは、都市近郊でしか作っていないから入手さえ難しい。

もちろん高速道路はないから、普通の道を走る。海の景色は十分に楽しめる。断崖絶壁ではなく、広々とした海につながるのは岩肌だが、時として砂浜が広がる。海岸は高知県につながりさらに続く。室戸岬が県境なのではない。かなり走ってから室戸岬にたどりついた。室戸岬は、地図で見ると尖がった岬なのだが、実際には500mくらいの丸みがあり、岬をピンポイントすることは難しい。岩礁があってこれも岬の位置を不明確にしている。

岩だらけの海岸にベンチがあり、ここでコーヒーを沸かした。波の音を聞きながら、海を眺めてコーヒーを飲むのは最高に美味しい。至福の時を過ごした。例によって、アルポットを持ち出し、特製の「携帯用ドリッパー」を使った。最近この「携帯用ドリッパー」に凝っており、たたんでポケットに入れられる試作品を試して見るのも、今回の旅の目的の一つだ。これをネタに商品化して、会社を立ち上げることまで考えているのだ。

すでに高知県には入っている。室戸岬を回って四国の南海岸になると、今度はやたら歴史が強調される。少しの平地があるだけで、がらりと雰囲気が変わる。古くから人が住み着き、半農半漁の生活が営まれていたのだ。土佐の土地には価値があり、その支配権をめぐって、各地で土佐七雄といった豪族が跋扈した。このあたりは安芸氏が支配していたが、長曽我部が土佐を統一した。

奈半利という変わった名前の町で泊まった。語源はよくわからないのだが古くからある地名で、交通の要衝であったことは間違いない。港があったし、山越えで、甲浦方面に抜ける野根山街道もあった。紀貫之の土佐日記にも「那波の泊」として出てくる。予約もなく飛び込んだホテルだけれども、清潔だったし、安かったから良かった。

飽きず見る室戸岬の岩礁は波に洗われ見え隠れして

素晴らしい海 足摺岬 [四国旅行]

奈半利に泊まって翌日は高知、足摺岬を目指す。高知には両親が20年ほども住んでいた。父の勤務のために移住して、僕も1年半をここで過ごしたから、いまさら観光スポットに行くまでもない。2,3の友人と会うだけだ。定年を越えて、いまも学生たちを指導して元気に活躍している友人、まさかの高知帰りで、教会牧師をしている友人。話が弾んで、高知を出たのは午後になっていた。

本当はここで2,3日ゆっくりして、住んでいた家の周りや、通った学校なども見たかったのだが、病院での検査予約が入ってしまい、帰りが限定されてしまった。陸路を辿ることで、数えて見ると結構日程が詰まっていることに気が付いた。

足摺方面を目指すのだが、高知からの高速道路は四万十町までしか行っていない。ここから四万十市を通って足摺岬への道は下道だ。四万十町は、もとの窪川で、四万十市はもとの中村だが、両者四万十の名前を譲らず、両方あると言うのだからややこしい。こういったこだわりが如何にも高知らしい。高知には独特の生活文化がある。

普通は、軽オートバイのことを「バイク」という。高知では「モーター」という。アイスクリームも高知では「アイスクリン」だ。方言が失われている地方もあるが、高知で土佐弁はしっかり健在で、立て札まで「芝生には入られん」と方言で書いてある。これが普通の日本語であり、方言という認識はないのだ。四国山地で囲まれ、土佐が一つの国であった名残だ。

足摺岬に着いたのは、もう夕暮れ時だった。海と夕日が美しい。またここでコーヒーを飲んだ。この景色を見てコーヒーを飲まずにおられるか。足摺岬の灯台のところが、ちょっとした広場になっており、ここでコーヒーを沸かした。妙なものだが、自分のコーヒーの味に満足感を覚える。

人がいない。連休明けのオフシーズンではあるが、観光客が見えない。空港から車で4時間はかかる。列車は、廃線に近い状態で、四万十市までしか来ていないから交通が極めて不便なのである。そのかわり、海は絶対に美しい。コートダジュールで地中海の紺碧の海と岩肌に感激したこともあるが、ここはそれ以上だ。シシリアの海の透き通った青さに驚いたこともあるが、ここはそれ以上だ。沖縄など目ではないのに観光客は少ない。まあ、逆にそれがいいのかも知れない。海の景色を見るなら足摺岬、特に「竜串」「見残し」の海岸は素晴らしい。

岬に近い、温泉旅館に泊まったが、宿泊客はほとんど我々だけの様子だった。丁寧な対応で、料理は、刺身、天麩羅、焼き魚といったありきたりのものだが、魚の新鮮さが違った。どれも美味しい。なかでも鰹のタタキは絶品だ。最近は高知でなくとも鰹のタタキが食べられるが、本物ではない。ダシが全く違うのだ。高知では、それぞれの料理人が秘伝の味を持っている。

あくまでも透き通った海の色飲むコーヒーは格別の味

やはり四国は遠いとこ [四国旅行]

足摺岬を楽しんだあと、松山を経て帰り道になる。グーグル地図で見ると松山から4時間半で行けることになるが、実際には宇和島までで4時間かかる。曲がりくねった海沿いの道はなかなか進まない。足摺岬周辺を散歩して昼食後に出発したので、松山に着いたのはもう夕方だった。松山城に行ったら、ケーブルカーの運転時間が過ぎていて登れず、それではという事で、ぼっちゃん団子を食べに行ったら、もう団子屋は閉まっていた。

松山は散々だったが、ここからの帰宅道は遠い。夜ではあるが、しまなみ海道を通って尾道に渡り、岡山まで行くことにした。岡山のビジネスホテルにたどり着いて寝たのは、もう真夜中だった。

今は岡山市に編入されてしまったが、備中高松は我が家の先祖が300年に渡って暮らしたところで、父母の墓もここにある。墓参りもしておかねばならないのだが、これがなかなか大変だ。墓地は山の上にあり、車の通れる道はないから、かなり登らねばならない。酸素ボンベを担いで、杖をついての登山ということになる。江戸時代初期からの墓がいっぱいあるのだが、墓石の腐食は案外早いもので、文政以前のものは、ほとんど読めない。

山から下りてきたらもう昼だ。ここから関東まで高速道路を走っても一日はつらい。途中、蓼科に一泊することにした。神戸の妹が蓼科の別荘に滞在しているというから会っておこうと思ったのだ。連絡を取ったら、別荘でなくホテルにいると言うことだった。別荘は管理が大変だ。掃除、草取りなどをして、最後はホテル泊まって疲れを取るのだから、何のための別荘だかわからなくなる。

蓼科も自然が美しいところだけれども、保養地だからおしゃれなレストランやカフェもあって、四国の雰囲気とはまるっきり違う。やはり、都会人はこれが好みらしい。四国がなかなか観光地とならないはずだ。翌日、高速道路で無事帰宅。半日もかからず、なんと手近なことだろう。

やはり、四国は遠い。辺境の地だからこそ行って見る価値がある。酸素ボンベを持ち歩かなければならない病身で四国を巡ることができたことに感謝したい。達成感、満足感が得られる旅だった。

サイダーを飲み干そうと上を向く 白い雲あり青空の中

憂鬱なパソコン更新 [日常日記]

パソコンの更新というのが嫌で仕方がない。どんどん性能が上がっているというのだが、僕にはその必要が感じられない。文章を書く上で、10年前のwordが最新のwordに比べて何か不便なことがあるだろうか。僕は今でもword2000を使って何ひとつ不満はない。

ところが困ったことには、古いwordでは最近のファイルが読めない。仕方なく新しいwordを入れる。全く僕の都合ではないのだ。Excelも同様、無理やり新しいものに変えさせられる。古いほうがよほどわかりやすい。PowerPintにいたっては、新しいものは使い物にならない。マクロの記録の機能が削減されてしまっているからだ。

ソフトウエアはまだ良い。OSの更新は多大な労力が必要で、何一つ良いことがない。新しいOSに慣れるまで散々苦労させられる。なるべく更新せずに古いOSで頑張ることにしている。近年までwindows2000を使っていた。古いbrowserに対応しないweb siteが増えて、アクセスするたびにエラーが続出して根を上げた。

その後も今日までXPで頑張ってきたのだが、VPNホストがセキュア接続でないと受け付けなくなり、仕方なくwin7に移行することにした。世間で言っているwin10への自動移行よりも一周期以上おくれていて、XPから自動移行するわけではない。手動移行だからXPファイルのバックアップにも時間がかかるし、トラブルも一杯出てくる。外付けの機器のドライバーが無く、CDがどこにいったかわからないということもしばしば起こる。一番困るのがネットワークにつながらなくなることだ。案の定、無線LAN子機のドライバーが動かない。

他のパソコンを使ってネットから探しだして、USBメモリーで入れてやらなくてはいけない。全く持って面倒なことだ。次に起こることはメモリーの不足だ。OSが進化するたびに必要なメモリーが増えて、メモリー不足の結果、動きが遅くなる。新しいOSが速いというのはウソだ。

待ち時間が長いことも嫌なことだ。ファイルのコピーにも何時間もかかる。何度もシャットダウンを繰り返して、そのたびにパスワードを入れなくてはならないから、放っておくわけにもいかない。昨日一日かかって、やっとネットにつながるようになった。さてこれから不案内な新しいOSの下で全てのソフトを入れなおさなければならないし、あちこちに退避させたファイルを戻す必要もある。その一つ一つにまたトラブルがある。全くもって面倒だ。

入院しました----老人病院体験 [療養]

ステロイドが20mgになっているので用心はしていたのだが、風邪をひいてしまった。39度5分の高熱がでたのでは病院に行かざるを得ない。かかり付けの主治医のいる病院は遠いので手近な病院に行くことにした。我が家の近くには、大学病院をはじめ、総合病院が6つもあり、いずれも10分以内の距離にある。個人医院も沢山ある。

この病院はいわゆる老人病院で、「入ったらでられない」とか「老人を飼い殺しにする病院」などと言われ評判が悪い。好き好んでこんな病院を選ぶ人もないらしく、外来は何時行ってもがら空きだ。高熱でヘロヘロになっている時に待ち時間がないというのは実にありがたい。風邪薬をもらおうと思って行ったのだが、風邪が拗れて肺炎を起こしているから入院治療が必要だと言われてしまい、そのまま入院した。

この病院に入院して、こういった病院には、それなりの良さがあるということを改めて認識するようになった。老人病院では医療以前のケアがいるのだ。オムツの交換、スプーンで口に運ぶ食事の世話、寝巻きの着せ替え、入浴の世話。むしろ医療行為は付けたりになる。投薬も口に入れるところまで確認しなくてはならない。大学病院ではここまで面倒はみてくれない。医療に必要なのは高度な知識だけではなく面倒見の良さなのだ。老人病院は確かに面倒見が良い。入浴も、大学病院ではシャワーだけなのだが、頼めば湯船に浸からせてもらえる。

僕も、食事の度に、カニューラと酸素マスクの切り替えが必要だったし、寝る前には呼吸器の設定をしてもらったし、朝は停止にまた手を借りた。家に電話を掛けることも頼んだ。便が出る度に便器を持ってきてもらったし、歯を磨くからといっては水を持ってきてもらった。一度は不注意で寝巻きをからげるのに失敗して、便だらけに汚してしまったのだが、快く対応してもらえた。他の患者はもっと手がかかる。一日中ナースコールを押し続けるひと、わけのわからない大声を出し続ける人、家に帰ると立ち上がってよろける人、食事を食べないとダダをこねる人、こんなのが一杯いる。

こういった難題に対応するスタッフとしては、「ヘルパーさん」と呼ばれる補助職員が多い。医療行為でない部分は看護士でなくても良いからだ。看護士は何をするかといえば一切の医療行為だ。注射、点滴、薬剤管理、検査から、聴診もやる。薬の増減なども看護士が決めて医者にハンコをついてもらっているような気がする。医者は、ちょっと来て挨拶するだけみたいなものだ、病棟は看護師が主体で動いている。長期に入院している人が多く、病状の変化も少ないし、悪化すれば急性期医療の病院へ移してしまうから、医者の役割は少ない。専任の医者は、どこかの病院をリタイアしたような人ばかりだ。しかし、多くの医者は、大学からの派遣だったりするから、医療水準が低いわけでもない。

看護士はお母さん世代のしっかりしたベテランが多い。医療現場の主体だからだ。こういった看護士を確保するために、病院には保育所、学童保育所が併設されており、夜間勤務にも備えているという。ヘルパーさんに、屈強な若者がかなりいる。この病院には野球部があり、社会人野球の強豪だ。高校を野球一筋ですごし、さりとて、プロ野球や大学野球には手の届かなかった子の就職先になっている。午後に野球の練習をする時間が与えられており、夜は準看護学校に行って将来は看護士を目指すらしい。

病院の経営は幾つもの介護施設を運営している法人だ。普通の病院は外来からはじまるのだが、こういった病院では施設から体調不良で送り込まれる患者が多いから、外来患者がいなくとも十分経営が成り立っているのだろう。外来が空いているのも不思議ではない。ヘルパーさんや、看護士の人材確保を含めてなかなかの経営手腕だと思う。医師から見て魅力がないのは仕方がないところだ。

開業医のところで待たされるくらいならこういった老人病院のほうがいい。一応、検査機材も揃っているから対応も早い。重篤な病気でなければ老人病院も悪くないのだ。僕の肺炎も、一週間で大体回復して、明日には退院となる予定だ。


肺がん宣告、余命2年かあ (1) [療養]

無事急性肺炎での入院は終わり退院した。この入院については、さらりと、ひとごとのように書いたが、それは、もっとはるかに大きな問題を抱えていたからだ。3月にも風邪を引いて熱を出した。インフルエンザだったのだが、そのとき撮ったレントゲンで右肺にポツンとした白い陰が見えたのだ。

間質性肺炎と肺がんの相関は高い。僕もいつかは肺がんを発症するのかなと、漠然とした思いはあった。主治医の所にレントゲンCDを持って行くと、さっそくCTスキャンということになった。間質性肺炎がおとなしくなり、KL-6も下がっていたので、ここ一年ほどレントゲンはやっていなかった。

右肺の中ほどから少し上、ソラマメのような形で3センチくらいの大きさの塊がある。「うーん、やはりガンだなあ」「しかし、ちょっと顔つきが優しすぎるようにも思う」ということだった。ガンにも顔つきがあって、普通はもっと、とげとげしいのだそうだが、僕のはきれいなソラマメ型だ。

腫瘍マーカーを検査することになり、採血をして、診断は2週間後に持ち越された。主治医とは長年の付き合いで、教授に応募するときにも、論文リストの書き方でアドバイスを求められたり、ある程度舞台裏も知っている間柄だ。もし、ガンだとしたら、どれくらい生きられるのか忌憚のないところを聞いてみた。

ガンの大きさとしては、まだ小さく、手術可能な大きさなのだが、間質性肺炎ですでに肺機能が低下しているのでこれ以上肺を切り取ってしまうことは難しい。そもそも間質性肺炎+白血病の患者に全身麻酔をかけての手術はリスクが相当高い。だから、手術は選択肢にならない。

ガンの中でも肺ガンは予後が良くない。抗がん剤もいろいろ開発されて来てはいるが、まだ延命効果のレベルでしかない。耐性が出来てしまうから、奇跡の生還ということもあるが、結局、せいぜい2年の延命効果でしかないということだった。余命2年を宣告されたことになる。

二週間後、腫瘍マーカーの結果が出た。SCCが6.5で基準値の4倍を超えているから、はっきりした結果が示されたと言える。他のマーカーは陰性だからまちがいなく扁平上皮がんだ。扁平上皮ガンは気管支に近いところに発生することが多く、僕のように末梢部の場合、腺がんであることが多いのだから、ちょっと意外だ。喫煙との相関も高いのだが僕はタバコを吸ったことがない。ともかくも、検査結果というのは冷徹なものだ。またCTも撮ったのだが、2週間では、何も変わりがなかった。

さてどうするか。覚悟は出来ていてうろたえることはなかった。重篤な病気をかかえており、年齢のこともあるからどっちみちあと10年は厳しい。それが2年になっても単に数字が変わっただけだ。人生は長さではない。この2年をいかにまっとうするかが僕の課題なのだ。

実のところ、これでいよいよ僕の命運もつきるのかといった実感はなかった。「不幸中の幸いばかりー-僕の病歴」で書いたように、僕は何度も死に掛かって、その度に危うく切り抜けてきた。悪運の強さには自信がある。今度も、なんとか切り抜けるのではないかという根拠のない確信みたいなものが消えないのだ。

思いついたのは粒子線治療ということだ。実は、僕の専門分野は粒子加速器で、最近は陽子線治療用の加速器にも関与している。手術はできなくとも、粒子線で腫瘍を叩くことはできる。切開の必要がないから、体への負担が少ない。入院の必要すらなく通院でやることができる。

ただ、問題はあって、適用条件が厳しい。大きなガンはだめで早期発見でなくてはならない。これは、なんとか大丈夫だろう。ガンは一箇所に集中した局所ガンでなくてはならない。二箇所以上だと放射線の被爆限界を超えてしまうからだ。小胞細胞ガンのように分散されているとまずいのだが、これも扁平上皮ガンの場合は大丈夫だが、一個であることを確認する必要がある。最後に保険が利かず自己負担となるから、300万円あまりの金がかかる。これはもう何とか捻出するしかない。

外科手術と違って、粒子線照射ではがん細胞を完全に取り除くことは出来ず、かならず取りこぼしが出る。だから医者から見れば、手術に替わるものではなく、抗がん剤の一種といった扱いになってしまう。いわゆる先端医療であるから主治医も、経験したことがなく、適用に消極的だ。早い時期に適切な抗がん剤を選ぶほうが効果的であるという考えらしく、放射線治療施設への紹介状は、書き渋る様子が見える。

まずは大学病院に送って、いろんな角度からの検査をしてからということだが、肺生検などは、それ自体がリスクとなるから、おいそれとは出来ない。いろいろ議論はしたのだが、もう少しここでできる範囲の検査をしてから結論を出すということになった。とりあえずは、この右肺の腫瘍がどの程度大きくなるのか、一ヵ月の経過観察をする。一ヵ月後のCTと比較するのだ。

肺がん宣告、余命2年かあ (2)に続く)