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学生運動の時代 [若かった頃]

今の大学と1970年頃の大学では、まったく雰囲気が異なる。当時は学生運動が爆発的に盛り上がり、我々団塊世代は全共闘世代などと言われることが多い。なぜ学生運動が盛んとなり、そしてまた急激に廃れたのかについて解明した論評は見当たらない。単なる回顧として風説をそのまま書いたり、自分を正当化したりする本が多いし、学生時代の言説と現在の自分の矛盾を語りたがらない人も多い。

戦後、日本国憲法の時代になって、一番大きく変わったのは教育である。上下なく、なんでも合議して、民主的に決めることが浸透しようとしていた。世の中ではまだ戦前の慣習がはびこっていたが、学校には民主主義がいち早く取り入れられた。小中学校でも校長ではなく職員会議が最高決定機関だった。教師は生徒に命令することを止め、子ども達は学級会で議長や書記を決めて民主的な手続きでものごとを決めることを学んだ。

大学自治が唱えられ、大学は全く独自の運営を行い、文部省は単なるお世話官庁であることを自認していた。大学の内部も民主的な運営に転換した。1950年に発行された父の学位記を見たら、授与者は学長ではなく教授会だった。各大学に学生自治会が結成され、学生自治会と教授会の協議が重視されるようになっていた。

しかし、日本国憲法が公布された直後から「逆コース」が始まっていた。自衛隊が発足し、勤務評定で教師が校長の配下に置かれ、大学も予算を通じて文部省の支配を受け入れるようになっていったのである。米軍による日本占領が終わったあとも米軍基地が居座り続けるのはおかしい。世の中では、それも仕方ないということで自民党政権が続いたのだが、大学内では安保条約反対が圧倒的に多かった。大学は反政府運動の出撃基地になった。

大学は、理屈で物事を考え、因習の支配が大きかった一般世間と乖離した世界だったのである。進学率が10%で、殆どの人が大学などには行かなかった時代には、大学が別世界であることも平然と受け入れられていた。若者の10%だけが別の考えを持ったとしても大勢に影響もなかったからである。大学は別の文化を持った特別な場所と認められていたのである。

60年代の高度経済成長は進学率の急激な増加を生み出した。親の農業や商売を受け継いで行くことが一番安定した生活をもたらす時代が終わり、誰でも勉強ができれば大学を目指すという時代が始まったのである。それでもまだ進学率は30%程度であり、学生はエリートと呼ぶには多すぎ、一般大衆と考えるには少ない中途半端な存在になった。

地方の高校から都会のメジャーな大学に進学する学生が一番多かったのはこの時代だろう。今は、地方出身者が減ってしまい、一流大学への進学は、都会の有名高校に限られているという。

多くの学生が大学に入ってカルチャーショックを覚えた。確かに世間一般とは別世界なのだ。世間一般は因習に支配されていることに気がつく。大学は理屈どおりのことが当たり前の世界だった。理屈で考えれば共産党の主張が正しい。当時共産党の議席は5人くらいで、世の中でみれば政党支持率は微々たるものだった。それが学内では80%以上の圧倒的な支持率を得ていた大学もあっただろう。学生自治会はきっちりと選挙で役員を決めており、自治会の役員も民主的に選ばれていた。当然、学生自治会は共産党系の人たちが主導していた。

しかし、大学生は大きな不安に取り付かれていた。自分達はもはやエリートではない。象牙の塔は金の力でどんどん蝕まれているように見えた。科研費などといった研究費予算枠が始まり、大学の先生達は文部省に一本釣りされるようになって行った。ベトナム戦争が起こり、大国が罪ないベトナムの人々を苦しめ、日本政府はそれに加担している。学生達は、街頭に出てベトナム反戦を叫び上げた。このままでは埋もれてしまう、世の中を正すことなしに自分達の人生は成り立たない。そういった思いに駆り立てられたのである。鬱憤晴らしにはなったが、無力感が漂っていたことも事実だ。

ベトナム反戦運動を通して過激な行動を主張するグループも現れてきた。こういった過激派は、60年頃からいろいろ活動はしていたのだが、一般の学生とは縁がなかった。学生自治会の役員に立候補したりしていたが、もちろん支持が得られることはなかった。そこで彼らが思いついたのは、「全学共闘会議」「全学闘争委員会」を名乗り、まどろっこしい自治会の議論を飛び越えて行動を起こすことだった。教室をバリケードで封鎖して無理やり学生をストライキに引き込むことをやり出した。

これは大学自治・学生自治を内部から破壊する行為であり、大きな反発を受けた。しかし、大学自治はすでに侵食を受けていたし、このままでは、窒息させられるといった不安な雰囲気は絶えずあったのである。若い教員を排除して教授だけが権力を持つ教授会自治に対する批判も強かった。今から思えば全く自治が無いよりは、はるかにましだ。今まで何の考えもなかった人にとっては、考える機会となったことも事実だ。急に目覚めて全共闘活動家になった人もいる。

以前から過激派は警察との暴力的衝突を繰り返していたが、全共闘の発足で、暴力を学生にも向けるようになった。警察との衝突には負けるのだが学内での暴力は容易に効果があげられた。あちこちで学生自治会の役員を袋叩きにして「全共闘」が勝手にストライキを宣言するようなことが続いた。こういった暴力は一方的なもので、「内ゲバ」などとひとくくりにされるべきものではないのだが、そのように報道され、今も通用しているようだ。話題性・事件性という意味でマスコミが暴力的学生運動ばかりを取り上げたので、学生運動=全共闘といった図式がいつの間にか定着していった。それが政府の意図だったかもしれない。全共闘が掲げた「大学解体」は、ある意味で政府にも都合が良かったのである。

実際には学生自治会を中心とした暴力的でない学生運動も多くあったのだが、こういった運動はマスコミには黙殺された。5000人が集まった集会はニュースに載らず、200人が警察とぶつかった騒動だけが報道された。そうするうちに、学生の中にも過激であることが根源的であるかの思考が広まり、全共闘派が多数になったことはないのだが、ある程度全共闘を容認するような雰囲気が生まれた。クラス活動家だった僕は、分裂・対立を起こさないよう意識的に党派に属することを避けていたのだが、自治会の書記長に選ばれていた。しかし、自治会室は赤軍派に占拠されて、学生大会は流会し、次の執行部を選出できないまま学部を卒業してしまった。この時点で学生自治会は崩壊した。後輩達はバラバラになっており、全員加盟制自治会を運営する意欲を失っていたのだ。

全共闘は派閥に分かれ、行動の先鋭化を競うようになっていった。学生自治会を否定し、異なる意見を集約するのではなく、自己の主張を押し通すことが出発点だから分裂は避けられない。暴力は強い意思の自然な表れとする考え方だから派閥間の抗争も暴力的となり内ゲバが始まった。まじめな友人がどんどん過激な方向に陥って行くのに心を痛めた。

暴力への拝跪が蔓延して行った。根底には百の議論より1つの行動が結果を生み出すといった理性への失望があった。事実、選挙では相手にされなかった学生自治の主導権がゲバ棒1つで吹き飛んだのだ。しかし、暴力で学内を支配して天下を取っても社会の変革とは程遠い。「大学内のお山の大将」だとか、「ちょこっと警察と衝突してみせるお遊び」だとかの批判が一番堪えただろう。彼らは、命がけで本気で革命をやるのが自分の責任の取り方だと追い込まれることになっていった。

人間は自分の命を捨てるつもりになったとき、他人の命も、他の人の暮らしも小さく見えてしまう。過激派はますます過激となり、分裂し互いに殺しあう悲劇を生み、結局は自滅して行った。

大学内が全共闘に暴力的に支配されることになり、一般の学生の多くは、学内のごたごたに嫌気をさして、アルバイトや旅行に日を過ごすことになった。授業もなく試験もなく、そのまま卒業できるのは得だと思っている人もいた。一時は全共闘に共感を覚えた学生も運動からは離脱していった。同時に、自治会を中心とした非暴力の学生運動も衰退して行くことになった。70年以降の学生は、「無関心」か「全共闘」かの二者択一を迫られ、「無関心」にならざるを得なかったのたと思う。なぜ全共闘に共感を覚えたか、なぜ脱落したか、なぜ暴力を容認したかについて、明確に答えられる人は少ないだろう。雰囲気に踊らされた自分の浅はかさを暴露してしまうだけだからだ。

全共闘運動の結果、大学にも傷が残り、ますます自主性を失った。学問の府としての誇りを失い世の中の役に立つことだけを考えるようになった。教授会の権限はなくなり、学長は文科省の意向には逆らえず、研究資金獲得のためにはなんでもする。それが当たり前のようにようになり、今ではほとんどの大学で学生自治会は機能していない。大学生はまぎれもない一般大衆であり、大学は18歳以降の居場所に過ぎない。学生も多大な授業料を卒業後の就職で取り戻すことに必死だ。学生は、完全に沈黙させられているのに近い

学生運動の盛り上がりは、民主主義が日本に導入されて、確立されたかに見えた大学の自治が壊れていく過程で現れた過渡現象だったのである。民主主義に敵対してしまう全共闘の発想自体が思想的屈服だった。一見盛り上がりと見えたのも崩壊の過程で見られたあだ花に過ぎない。だから膨大なエネルギーを費やしたが、何らかの成果が残せるといった筋合いものではあり得なかった。戦後一貫して「逆コース」は続き、アベ政権に至っている。日本人はいつか、徹底的に追い詰められた時に初めて立ち上がるのだろうとは思う。

初めての海外 [旅行]

僕の初めての海外行きはアメリカだった。それまで特に海外とは関係の無い分野におり、外国に行きたいなどと思ったこともないのだが、休職出向でアメリカで働くことになってしまった。準備もくそもなくいきなりの出発だからガイドブックも全く読んでいない。おまけに「すべておまかせ」を決め込んでいる女房と3ヶ月の娘を連れての旅だから緊張は甚だしかった。

まだ成田は開港しておらず、羽田からのパンナム便だった。航空運賃は極めて高く、片道で合計80万円もしたと思う。後で赴任旅費が請求できるはずだとは思っても、ずっしり堪えた。時差による体調不良を懸念して、いきなりシカゴまで行かずにホノルル->サンフランシスコ->シカゴのルートをアレンジしたが、よく考えて見れば、ホノルルが一番時差が大きい。

一番心配したことは英語が通じるかどうかだ。ホノルルでタクシーに乗り、「Please go to xxx hotel on yyy street」と言って、タクシーが無言で走り出したのでホッとした。今思えば多少変な英語だ。こんな時please文は使わない。タクシーの運転手もこれであまりベラベラしゃべる相手では無いと気付いたのだろう。

ハワイは観光地であり、ここに2泊したのだけれど、結局観光をする余裕はなかった。生活習慣の違いにとまどい、なんとか食事をするだけでせいいっぱいだった。実際、生後3ヶ月の赤ん坊に対しては、日本にいてさえオロオロする状況だったのだから余裕がないのは当然だろう。

サンフランシスコについたとたん、空港ロビーでの捕り物に出くわした。サンフランシスコへはバスで行ったが、バスディーポでは切符の販売所が何重にも鉄格子を張り巡らした構造になっていて、治安の悪さを見せ付けられるようで、配偶者は赤ん坊を抱いて固まってしまった。だからサンフランシスコでも観光はしていない。

目的地のシカゴに着いたらいきなり仕事が始まってしまった。日本人はよく働くから感心するよなどと最初に言われてしまうとサボるわけにも行かない。というか、言葉が良くわからない分だけ余分に働かざるを得ない。口でごまかすわけに行かないから、データを沢山出して納得させるしかないのだ。シカゴは観光地ではないが、全く見物はできなかった。

給料は出るのだが、アメリカではとんでもない税率で課税されて支給される。実は年末の確定申告でかなり返ってくるのだが、知らないから耐乏生活を覚悟した。おまけに、赴任旅費は出ても、帰りは勝手に帰れと言われて、帰りの航空運賃を貯めないと、日本には戻れないと言うことになったから大変だ。アメリカには退職金などという制度はない。

やれば出来るもので配偶者は一日3ドルで暮らす計画を立てて実行した。スーパーマーケットの食料品はかなり安いし、消費税も少ない。ガレージセールとか利用すれば家具や日用品も安く買える。アメリカは格差社会なだけに、先進国の常で、一般的には何でもお金がかかるのだが、格差の下の方の人も何とか生き延びる手立てが用意されている社会だと言うことがわかった。

一年経って、もう一年契約が延びることになった。税金が返ってきたし、帰りの切符代は貯まったしで、急に生活は楽になった。しかし、定着した生活習慣と言うのは変えられないもので、やっぱり貧民生活が続いた。それでも、気分的にはもう決して貧しいものではなかった。ついに観光の機会が訪れた。

アメリカでは出張の合間に、現地で休暇を取ることが認められる。出張でサンフランシスコに行き、休暇を取ってロサンゼルスまでドライブした。モントレーの松の木がある海岸で、この海の向こうは日本だと感慨深かった。ロサンゼルスでは勿論アナハイムに足を伸ばしてディズニーランドを楽しんだ。我々の子どもの頃は、ディズニーランドと言えば、雑誌の懸賞で一等に当たって行ける所であり、現実的に行くことを考える対象ではなかった。大の大人ではあったが、ディズニーランドに実際に行けたことは、大きな感激であった。

旅行は楽しい。結局3年間日本には帰らなかったが、夫婦で全く見知らぬ所に行き、新しい体験をする楽しさを味わった。結局は観光地にも行けたし、旅行は楽しいものであると知ることが出来た。年を取ってまだ旅行を楽しもうとする原点はこの最初の海外体験によるものだと思う。

お花見で沸かすコーヒー [旅行]

キャンプで活躍するのがストーブないしバーナーと言われているコンロだ。最初に手に入れたのは「OPTIMUS」というスエーデン製のものだ。学生時代に山岳部の友達に教えてもらった。3畳一間で炊事場もない下宿で鍋をしたり、ラーメンを作ったりした。小さく折りたためてゴーゴーと音をたてて強力に燃えるが、使い方は多少面倒だ。固形燃料を使って余熱し、それから火をつけなければならない。

結婚して家族でキャンプをするようになったが、ストーブひとつでは足りず、焚き火をするようになったから、あまり使わなくなった。仕事で崩壊直前のソ連に行った時にソ連陸軍仕様のストーブを5ドルで買い足した。ルーブルが極端に下落していたのだ。これは、手で温めて燃料をあふれさせて、それに火をつけて余熱するから、固形燃料を用意しなくて済む。しかし折りたためる構造になっていないからかさばるのが難点だ。

ストーブ二台体制でのキャンプもやったが、そのうちに家庭用のカセットコンロが出回り出した。燃料も安いし、使い勝手は格段によい。車に乗せるのだったらかさばってもかまわないのだから、キャンプ用のストーブは全く必要のないものになってしまった。カセットコンロは値段も安いのだから、わざわざ高いキャンプストーブを買っている人の気が知れない。

丁度お花見のシーズンである。この地方で古くから知られている桜の名所、北条大池にお花見に行った。お弁当を持っていくのだが、やはりコーヒーが飲みたい。しかし、どうも「人目」が気になってしまう。カセットコンロを使って薬缶でお湯を沸かせているとジロジロ見られてしまうのだ。もちろん、焚き火は禁止だろうし、火を用いることも、はばかられる様子だ。

実はこのために秘密兵器を用意してある。アルポットというアルコールランプ内臓ポットだ。中でアルコールを燃やすのだが、見ただけではわからない。これならどこででも使える。旅先で、美しい景色を味わいながら飲むコーヒーは格別な味がするから、車に積んで持ち歩くことにしている僕のお気に入りだ。今回もこれを使った。

アルポットには、お湯を沸かす容器が円筒形であるという問題があった。コーヒーを淹れるために、ドリッパーにお湯を注ぐと、一応注ぎ口はあるのだが、ドバッとコーヒー粉が飛び散るくらいにお湯が出てしまう。そのため別にかさばるサーバーを持ち歩いたりしていたのだが、今回、思いついて、フタをしたまま注いでみた。すると実にうまく注げるのだ。手でフタを押さえると熱いのだがハンカチとかを介して押さえれば問題はない。新発見が嬉しい。

めまいが復活し、ヨタヨタとしてなかなか歩行もままならないのだが、車から大池の桜までなんとかたどり着き、満開の桜に囲まれて、お弁当を食べた。池の周りを取り囲んで、水面にも桜が映っているのは見ごたえがある。何年か前に来たときは、桜の木が老齢化して花が少なかったのだが代替わりしたらしく元気に咲き乱れていた。検査結果も思わしくない数値なのだが、ここでコーヒーを飲めたのは大きな満足だった。コーヒーで元気付けられて、池を一周できた達成感もある。

大池を囲む桜のあでやかさ病忘れてコーヒーを飲む

杖の効用を知るまで [日常生活]

僕は杖が嫌いだった。なぜって、いかにも年寄りくさい。それにあまり役に立ちそうにない。それでなくとも、酸素を抱えているのだから、これ以上、手の塞がるるものは御免だ。しかし、食わず嫌いは大人気ないからと、試して見ることにした。なんと丁度良い長さのモノが100円ショップに売ってあったのだ。

当時、僕はリウマチ性筋痛症に悩まされていた。歩行で、足を持ち上げた瞬間、ももの筋肉に激痛が走る。案の定、杖は役に立たなかった。杖は足に力を入れた時に痛い人が使うものであって、足を持ち上げた時の痛みには合わない。邪魔なだけだ。

そう結論したのだけれども、最近は「めまい」に悩まされるようになった。血流が悪くなったせいだろうが、原因不明で、ゆらゆら、時にはぐるぐると目が回る。いつもではなく、歩き始めとかがひどい。大分収まっては来たのだが、やはりバランスが不安定でよく転ぶ。

「めまい」の時は、介助者に支えてもらってももダメだ。人間は二足歩行で横方向の静的安定性はない。どんなに頑強な人でも、肩を横に押されると動いてしまう。頼りにした支えがふらつくのはかえって具合が悪い。壁や柱を伝うのが一番である。

つかまるところがない場所で、めまいとなれば、立ち止まって踏ん張るしかないのだが、このときは杖が役に立つことがわかった。やはり3点支持は2点支持とはちがう。杖に寄りかかることで前後のふらつきを止められる。しかし、歩くときにはやはり邪魔でしかない。なのに腕だけは疲れる。

世の中では杖を歩行のために使っているようで、最近は健康な人でも山歩きに杖を使う。山行用の杖はウオーキングポールなどといって少し形状が違う。持ち手が真っ直ぐな棒状で、年寄り杖のようにT型ないしL型に曲がっていない。これは、寄りかかるのではなく、「すがる」あるいは「ぶらさがる」ことを想定している。杖の頭を引き寄せることで推進力が得られる。腕が後方に行ったところでは押すことになるが、腕の力で推力を得ると上体が前に倒れる。だから、もう一方の手に持った杖を前につく。杖は二本使うのが原則なのだ。体が前に倒れるから、自然と反対側の足を大きく踏み出すことになる。結果として歩幅が大きくなる。

試みに大分前に使わなくなってしまったスキーのストックを持ち出して散歩に使って見たら、かなり歩行が楽だった。僕も、病気になる前は、毎年スキーをやっていたのだ。二本杖はさすがに足元が安定するし、歩幅が大きくなる。そのうえ背筋が伸びて姿勢もよくなる。これはいい。

杖の原理を考えてみると、T型の杖は、違う仕組みであることが理解できる。T型の杖は、「引き寄せる」ではなく「寄り掛かる」といった使い方だ。大きく腕を振って体の前に突いて押したのではまったく推進力は得られない。力の向きが逆だ。後方で力を入れるためには後ろに寄り掛からねばならないから、無駄に力を使うだけで推力にはならない。一本のT型の杖で推力を得ようとするのが、そもそもの間違いだった。僕は無理に力を入れて漕ごううとしたからから腕が疲れたのだ。T型杖は転びそうになったとき、それを支えるためのものだと割り切らなければならない。

軽く持って、腕もあまり動かさず常に体のそばで、杖はブランと揺らすように前後する。これが正しい使い方だと言うことがやっとかった。こうしてみると、あまり邪魔にならない。いざという時の安心感もある。まさに「転ばぬ先の杖」だ。「歩くぞ」というときには二本ストック。ちょっと足元が不安定なときには100円杖。そのうちT型I型両用の山行杖を手に入れようと思っている。

会社を立ち上げる [定年後の苦難]

僕は自分の専門に閉じこもらず、間口を広げることを信条としている。まったく分野違いの本を書いてみたり、最近は歴史ブログ(http://yabunira.blog.so-net.ne.jp/)で盛んに記事を書いているし、そのうち本にする目論見もある。外国生活とかいろんな事を経験してきたのだが、唯一つ経験していない世界があることが気になっていた。それは、実社会とのかかわりというかビジネスの世界だ。残念ながら、金儲けだけはしたことがない。

死ぬまでに一度ビジネスの世界に首を突っ込んで社長になって見たい。そう話したら連れ合いは、大笑いした。あんたに出来るわけないと断言するのだ。およそ僕ほどビジネスに向いていない人はないなどと言う。そんなことはない。確かにあまり社会常識に従っていない面はある。しかし、それは社会常識を理解した上での意図的なものだ。連れ合いにはそれがわかっていないだけだ。

アイデアはある。ニッチな商品だが、きっと売れると思う。アマゾンなんかを覗いてみると、似たような商品がいくつも出ているから市場はあるに違いない。僕の考えたものは、性能的にこれらのものより確実に優れている。コストはずっと安い。2千円とかで売っているのだが、僕のは多分原価300円くらいだ。これを1300円で売れば売れないわけはない。1000円の利益になる。なかなかの利益率だ。

しかし、どれだけ売れるかということについてはあまり自信がない。買う人が限られているから、飛ぶように売れるわけではないが、ネット販売なら販売コストもかからないし、小さな物品だから送料もしれている。1000個くらいを作れば、どこかの工場に委託して安い原価で作れるだろうし、時間をかければ在庫は掃けるから、赤字にはならない。

パッケージとか彩色デザインとか、色々と考える事は多い。宣伝も大切かもしれないが、これは時間さえ掛ければ口コミで広がることが期待できる。まず会社を立ち上げないことには、製造委託の交渉も出来ないから、これが第一だ。

そこで、会社の作り方を研究してみた。会社の登記には、結構な手続きがあり、お金もかかる。小さな会社の場合、もろもろの費用で30万円くらいになる。1000個の製造投資に30万円とあわせると、60万円の元手がいる。これは、600個売れた段階で償却されるから、あとの400個分40万円が利益になる目算だ。実際にかかる経費はもっと多いが、オフィスは自宅だし、水光熱費なんかも特に増えるわけではないから、会社維持費はそんなに多くない。やれるじゃないか。

40万円は、大きな利益ではないからこのビジネスだけで食って行くのは難しい。しかし僕は定年後であり、基本的には年金で生活している身だ。大きな利益がいるわけではない。会社の収益はたいしたことないのだが、そのほかに隠された利益があると思う。パソコンやネットワーク費用は、多分経費として計上できるし、社長交際費として外食費用なんかも会社の経費に出来るかもしれない。こういった経費で収益をゼロに見せかければ税金の負担もない、こう考えると楽しくなってくる。もちろん旅行は全部出張だ。

経理とか複式簿記とか、勉強しなくてはならないことが一杯ある。いろいろと調べてみるうちに、税金に問題があることがわかった。会社は例え、利益がなくとも毎年7万円の税金を納めなくてはならないのだそうだ。これは痛い。1000個を売り切るまでに5年かかればそれだけで35万円。ありゃ、利益はなくなってしまう。6年かかれば赤字になる。

ビジネスはスピードが大切で、急成長するか破綻するかのどちらからしい。うーん、これではなかなか、生半可な決心で参入できない。連れ合いが「ほらね」といった顔つきでこちらを見ているのが気に入らない。僕はまだあきらめたわけじゃない。例え利益が出なくとも、5年間社長としての経験が出来ればそれでいいという考え方ももある。金儲けはできなくてもビジネスは出来る。そういうしかないのだろうか。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。

「がん」食事療法への疑問 [療養]

「がん」については、まだわかっていないことが多い。だからこそ日本人の死因第一位でありながら、確実な治療の道が開けていない。手術、抗がん剤で救われないから、民間療法に頼りたくなる。なかでも食事療法は科学的とも言える根拠が示され、多くの人が多少なりとも実践することになる。本人や周りの人間にとって、出来ることはこれくらいしかないという思いが根底にある。

「がんは食事療法で治る」「免疫力でがんを治す」といった本がいくつも出版され、かなり読まれているようだ。一般的には適正な食事は健康の元であるから、間違ったことが書いてあるわけではないと思っていたのだが、読んで見て逆に疑問を感じるようになった。リウマチ、間質性肺炎で免疫抑制剤を飲んでいる身としては、様々な免疫作用を「免疫力」などというわけのわからない概念でひとくくりにしてしまうことにも抵抗がある。「女子力」などと同じで、中身は千差万別のはずなのだ。

日本のがん死亡率は年々増えているが、ヨーロッパ、アメリカなどでは逆に減っている。これはアメリカなどの先進医療は必ず食事療法を取り入れているからだと、食事療法の重要性を冒頭で強調する。食事療法に頼るのが先進的なのだという主張だ。僕は、まずここで引っかかってしまった。

アメリカ人が健全な食生活をしているなどということはあり得ない。ジャンクフードと不摂生による肥満が極度に蔓延して、心臓麻痺で死ぬ人が増えて、がんになる前に死んでいるのが現実だ。医療制度が不備で、富裕層には手厚くとも貧困層は十分な医療を受けられず、がん年齢まで生き延びられない。日本にがんが増えているのは、老齢人口が増えていることが第一の要因なのだ。日本は長寿国として知られている。

他の見方もあるだろう。がん死亡率の要因を絞り込むことは難しいが、圧倒的に不健全な食生活をしているアメリカ人より、むしろ日本人のがん死亡率が高いことは、食事はあまりがんと関係がないということではないだろうか。不健全な食事のほうががんにならないとまでは言わない。

「健康に良い」と「がんが治る」の間には大きな隔たりがある。これらの本は、この二つをごっちゃにした議論に陥っている。栄養バランスの取れた食事が健康に良いことはわかっているが、だからといって「がんが治る」わけではない。「健康に良い」を「がんが治る」にすりかえてしまうところがこれらの本の大きな問題だ。

あれが良い、これが悪いと細々した注意が述べられているが、がんと関係することは2つしかない。それは、喫煙と肺がんの関係、塩分過多と胃がんの関係である。これ以外は、単に「一般的に健康に良い」だけである。

栄養学的には玄米のほうが白米よりも優れている。胚芽にはビタミンBが含まれ、これが不足すれば確実に不調をきたし、脚気になる。現在では他の副食物からビタミンBが摂取できるから、あまり強調されないが、かつては7分つきなどを食べるのが普通だった。しかし、玄米を食べればがんが治るわけではない。どう統計を取っても、玄米食のほうが「がんが治る」という結果は明確に出てこない。

食事療法でがんが治ったという事例がいくつも紹介されているが、実は食事によらず直った実例も同じくらいある。理屈の上でも健康食のほうが治りやすいとは考えられるが、その差は確認されていない。抗がん剤の種類とかストレスとか他の要素の影響があって、明確な比較が難しいからだという。逆に言うと、食事療法の効果はこういったもろもろの効果の陰に隠れるほど小さいものであることが実証されていると言うことだ。

がん患者であれ健康人であれ、健全な食事をすることは良いことだ。しかし、「がんが治る」というすり替えを行うと半ば宗教的に、健全な食事の内容がゆがめられてしまうことがある。「チキンは良いが牛肉は絶対食べてならない」「イワシはよいが、マグロはいけない」「洋食はダメで和食でないといけない」などと言うレベルになると、もう、がんとの関係ではなんの根拠もない。もちろん、チキン主体で牛肉は控えめにするくらいなら、否定することもないことだ。多分そのほうが健康に良いだろう。

「洋食はダメで和食でないといけない」になると、むしろ害になる。それでは冒頭のアメリカの方ががん死亡率が低いということが説明できない。塩気とマッチするのが米の特性であり、米を主体とした和食はどうしても塩分が多くなる。化学調味料やダシにはナトリウムイオンが多く含まれ、結果的には塩分と同じだから、毎日味噌汁を飲めば、それだけで必要塩分量を越えてしまう。しょうゆ味、ミソ味、これらは全て塩分を基本としたものだ。

動物性たんぱく質の取りすぎなどといわれるが、必要量の5倍も10倍もとるわけではない。しかし、日本人は必要塩分量の10倍も取っている。動物性たんぱく質とがんの関係は立証されていない。塩分は発ガンが立証されているのだから訳がちがう。農薬とか保存料などで発がん性のものもあるが、これらは法律で量が規制されている。塩分は唯一規制されていない発ガン物質なのである。

野菜中心の食事も問題がある。野菜には、一見味がない(本当は味があるというのが正しい)から、いきおい味付けをしてしまう。野菜の煮物には塩味が欠かせない。大量の生野菜は大量のドレッシングになる。無理に味付けを控えた結果、おかずに飽きたらず、漬物やタラコなどに依拠して米を食べるのでは意味がないことは明白だろう。ステーキは胡椒を振っただけで塩分なしでも十分美味しいという違いは大きい。タレをつけるなどというのは焼肉の発想であり、ステーキではない。

食事の基本はおいしく食べることだ。食事療法を「お百度まいり」や「水ごり」のように、自分の体をいじめることが、病気回復につながるといった迷信にしてしまってはいけない。とりわけ、子どもがいる家庭では、家族揃って楽しい食事の範囲内で、健康に気をつける食事をすべきだろう。食事療法が家庭のストレスになっても強行するほど確実なものではないことは明らかだ。

もうひとつ、なぜかこれらの本には全く書いてない事実を挙げておこう。それは日本でも、30代、40代については、がん死亡率そのものが年々低下しているということだ。がん治療に対して、早期発見で見かけの5年生存率を上げただけだという批判があるが、これは当たらない。まだまだ不十分だが、医療は少しずつ進歩しているのだ。がんが治せないのは医療の限界を示すものだなどと言う悲観的結論は早とちりである。