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定年後の苦難(12) 孫たちのこと [定年後の苦難]

僕には3人の孫がいる。3人とも女の子だけど、それぞれ全く違った特性を持っていることに驚かされる。少し不満なのは、僕の気質や特性をしっかり受け継いだ子がいないことだ。

一番大きい子は4年生。この子はとてもソーシャルだ。決してわがままなど言わない。僕にも気をつかったりして、「おじいちゃん、大丈夫?荷物もってあげようか?」と聞いてくる。なんで僕が小学生に面倒をみられなければならんのだと思ってしまう。周りに気配りする徹底した「いい子ちゃん」だ。小さいときから、ご挨拶が大好きで、3歳の時に、我が家の風呂から出てきて、「お風呂お先にいただきました」などとすまし顔で言ったのには腰を抜かすほど驚いた。3歳の言うことか。

一人遊びが出来ないから、いつも相手をさせられる。遊びは専ら「ごっこ遊び」だ。相手をするのは手がかからない。病院ごっこなら、申込書とか、紹介状、診察券に凝って、いろいろと書類を作り出す。電話を受け付けたら、帳面に記録をつけなくてはならない。「いらっしゃいませ」などと、やたら愛想の良い病院なのだが、手続きが多くて、大抵、診察が始まるまえに、御飯の時間になり、終わってしまう。さすがに、4年生になってからは、ごっこ遊びは少なくなった。

もちろん、学校でもいい子で通している。宿題や指示された自主学習は、計画を立てて、全部こなす。先生の受けは当然きわめて良い。観点別評価は、33項目中32項目がAという有様だ。癪なことに、「いい子」だったおばあちゃんの路線をそのまま受け継いでいる。僕は、「いい子」ではなかったので、小学校時代、こんな女の子を敵視していた。先生のお気に入りなんてろくでもない奴に決まっている。けど、本当はこういう女の子が好きだったのかもしれない。おばあちゃんと結婚する破目になった。

次の子は、5歳で、保育園の年少組だ。この子は、周りに気を使わず自分を出せるというところが好ましい。しかし、おじいちゃんを見下す傾向がある。「シートベルト、おじいちゃんより早くできた」と威張る。何かにつけて、おじいちゃんに対抗するのは無論おばあちゃんの影響だ。いつも「おじいちゃんとどっちがおりこうかな」などと、言うからだ。おじいちゃんに威張るのが好きで、「ここから、あそこまで飛べる?」と挑戦してくる。酸素ボンベを抱える体になってしまっているから、降参するしかない。「もう、あっちまで飛べるようになったんだよ。おじいちゃんは”まだ”出来ない」と威張る。僕が将来、元気に飛び跳ねられるよになると思ってくれているのは彼女だけだ。

この子がやたら言語能力に長けているのは、やっぱり、おばあちゃん譲りだ。1歳の時からペラペラおしゃべりだった。1歳というのは、単語が出るだけということになっているが、この子に限ってそんなことはなかった。もう一歳半だったとは思うが、「そこどいてよ、邪魔だから」とお姉ちゃんを押しのけて、ころっと横になって、オムツを替えてもらっていた。まるっきりの赤ちゃんのくせに、口だけは一人前なのだ。文字を教えたことはないのに、勝手に覚えてしまっている。僕に本を読んでくれとねだるのだが、何のことはない自分ですらすら読めるのだ。文字を追う様子が見られず、全くよどみないから可愛くない読み方だ。でも読んでいる声はすごく可愛い。

3人目は今まだ3歳。単語から二語文になり、やっと構文のある言葉が出てきたから、よその子よりおしゃべりではあるが、正常な発達の範囲だ。他の二人のように僕を驚かせることがない子供らしい子だと言える。よく歌うし、四六時中しゃべるのではなく、黙々と遊ぶことも出来る。しかし、積み木をやらせて見たら、3次元的な積み上げをやってしまうので驚いた。他の二人は、3歳では平面に並べるばっかりだった。思い切りも良くて、公園の滑り台をものともしないで滑り降りる。あとの二人は、怖がりで、なかなか滑り降りるようなことは出来なかった。リケジョになって、僕のやった仕事にも興味を持ってくれるかも知れないこの子とは、もう少し遊んで性格を見極めたかったのだが、永住ビザが取れてしまったので、年も押し迫った昨日、息子のいるサンフランシスコに行ってしまった。

このように、同じ孫でも、それぞれに、随分と違う特性を持っている。この子たちが、いったいどのような大人になるのだろうかと思うと楽しみである。しかし、おそらく僕は、この子たちの将来を見届けることはできないだろう。間質性肺炎と白血病だから、そこまで長持ちするはずがないからだ。この子たちの記憶にも、わずかな痕跡をとどめる程度だろう。それを思うと残念でならない。

定年退職後の苦難の道はまだまだ険しく続くのである。


ロバのパン [懐かしい物]

子どものころ、1950年代、母の実家に連れていってもらう時の楽しみは蒸しパンを買ってもらう事だった。実家は京都の街中にあり、今では住宅がほとんどない商業地域だ。路上販売など大渋滞の原因になるから考えられもしない。

「♪ロバのおじさん チンカラリン
チンカラリンロン やってくる
ジャムパン ロールパン
できたて やきたて いかがです
チョコレートパンも アンパンも
なんでもあります チンカラリン♪♪♪」

軽快なメロディーのレコードを流して、ロバが馬車を引いてくる。曲が聞こえてくると、「おばあちゃん、ロバのパン来たよ」と、おやつをねだるのだ。この歌では、いろんなパンがあるようになっているが、実際には蒸しパンしかなかった。

連れ合いは、九州天草の出身なのだが、ロバのパンは天草にもあったということだ。そういえば、高校生のころ舞鶴でもロバのパンを見かけたから、全国展開していたことになる。ただし、その頃には車での販売になっていたし、普通にいろんなパンを売っていた。

調べて見ると、やはり発祥は京都で、ビタミンパンという会社が始めて、一時は、全国に150もの支店を持ったらしい。模倣で同じ業態の会社も沢山あったから、1960年代には、全国にこの曲が流れていたことになる。

当然、ビタミンパン社のCMソングだと思っていたが、どうもそうではないらしい。「ロバのパン屋さん」は矢野亮作詞・豊田稔作曲の童謡なのである。ビタミンパン社がレコードを買って勝手に販売時に流しただけだ。蒸しパンしかなかったのに、アンパンやチョコレートパンが出てくるのは、そのためである。実際にはロバではなく、木曾馬だったそうだが、これも歌が別立てで作られたからいう事情によるものだ。

童謡だから、どこの会社が使ってもかまわない。だから全国各地で使われたわけだ。歌に合わせていろんなパンを売っていたのは、多分別会社だ。ビタミンパン社は今でも存続しており、蒸しパンに特化したままだ。この歌に出てくるアンパンは今でもあるが、ジャムパンとかチョコレートパンは、あまり見かけない。どれも周りをパンで包み、中にジャムなどが入ったものだった。

あれから、パンの発展は目覚しい。僕が住んでいるこの町も「パンのまち」を自称して、多くのおいしいパン屋さんがある。パンは作りたてでないとおいしくないから、本質的に大工場のものはダメだ。中小企業、個人経営が健在できる数少ない業種だろう。数々のおいしいパンが売られている。日本は世界でも有数のパンのおいしい国になった。アメリカで暮らしていたとき、パンの不味さに辟易したのを覚えている。ただし4斤で25¢といったとんでもない安値ではあった。アメリカでも都会地に行けば日本と同じおいしいパンがあったのかもしれない。

役に立つのだろうか新しい補聴器 [療養]

難聴が進んでいる。会議の時の聞きづらさから、日常会話の不便につながり、中程度の難聴ということになった。補聴器で問題が解決すればいいのだがそうは行かない。

これまで使っていたのは、「デジミミ2」というもので、2万円くらいで手に入る。会議の時には、これで音を大きくすると、多少聞き取りが良くなった。耳の穴に強く押し込むもので、長時間使うと疲れる。押し込みが弱いと、ピーと発振してしまう。マイクとスピーカーの距離が1cmもないのだから、これは仕方がない。だんだん、ボリウムを上げるようになり、ハウリングで限界になってきてしまった。

そこで、本格的な補聴器を手にいれることにした。バーナフォンというスイスの会社が作っているもので、値段は一桁上がるが、コストコで買うとかなり安くなる。耳掛け式で、マイクとスピーカーが少し離れているから、発振はしにくい。雑音が非常に少なく、長時間使っても苦痛にならないのがいいところだ。高級な補聴器は、周波数毎に増幅度を設定できるので、各人の症状に合わせることが出来る。

そういったことから、調整が大切だということが盛んに強調され、「どの補聴器を買うかより、どこで買うかが大切」「良い技術者のいる店で買わなければ意味がない」といった宣伝が目立つ。これはまるで補聴器が万能であり、うまく働かないのはすべて買う店が悪かったからだという幻想を与えるものだ。しかし、補聴器は本質的に抜本的な症状改善ができるものではない。他の店で買った補聴器を持ち込んでください。見違えるような性能にする調整をします。などと言える店は一軒もない。すべて、売るための宣伝に過ぎない。

実際には、オーディオグラフで周波数毎の聴力測定をして、これに合わせて、コンピュータが指示するとおりに増幅度を設定すればほとんど調整は終わりだ。騒音が強すぎて苦痛だなどと言う場合には少し妥協して増幅度を下げて快適な音質には出来る。しかし、結局のところ周波数毎の増幅度しかいじるところはなく、高音を強調するとか低温を伸ばすなどということしか出来ない。言葉のフォルマントは、広く分布しているので、周波数で分離するわけには行かない。だから調整で「うー」と「ぬー」が聞き分けられるようになるなどということはあり得ないのだ。

眼鏡と補聴器は全く違う。眼鏡は目のレンズを補正するものだ。網膜にとってみれば、水晶体でも眼鏡でも同じようなもので、焦点さえ合えば健全な目と変わらない。しかし、網膜が劣化した場合、いくら眼鏡を掛けてもよく見えないだろう。難聴は、目で言えば網膜の劣化に相当する。鼓膜に音は届いているのだが、そこから脳に伝わらないのだ。

仕方がないから、音を大きくして鼓膜を大きく震わせる。自然の音とは別の音を聞いているのだから、同じように聞こえるはずがない。確かに補聴器をつけると、今まで聞こえなかった小さな音が聞こえるようになる。しかし、何を言っているのか良くわからなかったものが、良く聞き分けられるようには、なかなかならない。音は大きくなっても「うー」と「ぬー」の区別とかは、難しいままだ。補聴器の使用は眼で言えば、照明を明るくすることに相当するだろう。

とはいうものの、他に手立てがないから、補聴器を使って行くしかない。やっかいなことだ。

ブログランキングを1位にしてみる [日常日記]

「にほんブログ村」のブログランキングに参加してみている。間質性肺炎の人たちとの情報交換にいいだろうと思って「肺炎」のカテゴリーを選んだ。ついでに「海外旅行」とか「60代」にも登録しておいた。順位なんかどうでもいいのだが、いざ参加してみると気にはなるものだ。やはり書いたものへの評価ということになるからだ。

バナーを貼り付けて、読んだ人にプチっと押してもらう。多くの人が、記事を読んでボタンを押せば順位が上がる仕掛けだ。記事の中で「押してください」などと毎回書いている人もいるが、どうもさもしい気がして気乗りがしない。横の枠外にボタンを設置しておくことにした。

「肺炎」カテゴリーは、小さな部門だから、時々更新すれば、10位くらいにはなれる。上がったり下がったりするから面白い。しかし、どの様なときに上がり、どの様なときに下がるのかが釈然としない。記事を書いて自分では上がるはずだと思っても、逆に下がったりする。

他のブログを見ても、内容と順位は一致しない。順位は低くても興味深いブログがある。このランキングにはどうも納得しがたい。他の大きなカテゴリーは、もっとひどく、1位/1000なんてのを見ても、全く無内容な記事だったりするから呆れてしまう。

考えて見ると、それは当たり前で、ボタンを押すことと記事の内容とは、何の関係もない。ボタンを押すとブログ村のページが開くのだが、これが実に煩わしい。記事を読む度にボタンを押してブログ村ページに飛ぶなどと言うことを普通の読者が繰り返すはずがない。

思うに、ボタンは自分で押すか、親しい友人に毎回押すことを押し付けるしかない。良く更新する人は、ボタンを自分で押してランキングを確認するからそれだけ分順位が上がることはわかる。しかし、何回自分で押しても、一回以上にカウントされない仕掛けはされているから限度がある。ランキングの上のほうと僕のブログとの間には相当なポイントの開きがある。一体、この違いは何によるものだろうか?

こんなことから、ブログのアクセスを研究してみることにした。第一歩として、このブログをランキング1位にしてみようと思う。先週は11位だったこのブログを今週末までに1位にできるかどうか。現在の順位は左上の「肺炎」ボタンを押してもらうと現れる。この顛末は「追記」として書くつもりだ。

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酸素を担いで石垣島(1)----酸素の準備 [旅行]

寒さもたけなわ。しかし、引っ込んでばかりもおられない。旅に出よう。自由に歩ける時間も限られているから、本を読むのはあとまわしだ。寸暇を惜しんで遊ぶというのも変な話だが、幸い体調は悪くない。暖かい所に旅行すべきだろう。沖縄、辺野古に行って現地の皆さんを激励するべき時期かとは思ったが沖縄には前に行っている。もっと南の石垣島を目指すことになった。

石垣島まではそれなりに遠い。だから飛行機代も安くは無い。韓国のほうが近いのだからこれは仕方がないだろう。安い切符を探すとツアーの方がはるかに安いことがわかった。2泊4食付で、島巡りや琉球舞踊のアトラクションまで付いて飛行機代より安いとは、いったいどういうことだろう。

酸素の問題もあるので、自由が効かないツアーは苦手で、これまで利用したことがない。しかし、実質、団体行動は一日だけだから、これなら問題ないだろう。「酸素がいる人だと航空会社に伝えておいてね」とコメントしてネットで申し込んだ。といっても、旅行社が酸素吸入の面倒を見てくれるわけではない。こちらから航空会社に連絡を取らなくてはならない。日本の航空会社は障害者に親切で専用の電話受け付けもあるし、日本語も通じるから楽なものだ。

ホームページから書式をダウンロードして必要事項を書き込む。これはMEDIFと呼ばれる各国航空会社共通の書式なのだが、日本語で書いてある。本当は医者が書くものだが、こちらで書いて、診察のときに「ちょっとサインしてください」とお願いすると良い。妙に診断書などというと事務に回されて、時間もお金もかかってしまうことになる。日付が出発の二週間以内でなければならないことには要注意で、あらかじめ診察日を調整しておく必要がある。出発の3日以上前にFAXして確認してもらい、現本は出発当日持参する。

機内に持ち込むボンベは、「容器証明(検査済み証)」を付けたちょっと特別なものでなければならないから酸素屋さんに準備してもらう。僕の場合はPOC(携帯用酸素濃縮機)を使うので、機内でボンベはいらないから少し楽だ。しかし、ツアー2日目は、朝から晩まで盛り沢山で6時間のバッテリーで持たないことは確実だ。個人旅行なら、途中でヘタって充電もできるがツアーでは、そうも行かない。現地で酸素ボンベを手に入れなければならない。

日本南端の孤島だ。うまく酸素が手に入るだろうか。酸素会社に連絡してみたら、いとも簡単に「いいですよ、手配しときます」と答えが返ってきた。ホテルに届けておいてくれるということだった。うちの酸素屋さんもなかなかのものだ。そう思っていたら、出発近くになってメールが来た。「宅急便で断られてしまいました。」だとおっ!。

あたりまえだ。どこの運送業者も運送約款にはっきりと、「危険物、高圧ガスは運びません」と書いている。宅急便で送れるくらいなら酸素屋さんに頼んだりしなくても、他の荷物と一緒に送ってしまうよ。どうせ、呼吸器(NPPV/CPAP)なんかも必要なんだから。

どうも宅急便は運送約款を無視して引き受けることもあるらしい。トラックなら「高圧ガス」の標識をつけて、免許をもった取り扱い主任者の監督のもとに運べないこともないが、宅急便がそんな事をしているとは思われない。これは法律違反だ。島の場合、航空機は絶対に受け付けないから難しい。

いざとなったら、途中でツアーからは離脱するつもりでいたからそれほどには動じないのだが、「いまさら、どうしてくれる」と少しごねてみた。石垣島にも在宅酸素の人はいるはずだから、会社は違っても、少し酸素をわけてもらう事くらいできそうな気がする。

結果的には、那覇の支店から、船便で送ることができたらしい。なんとかなるという連絡が入った。出発の4日前のことだ。石垣島の病院に連絡してみるとか、石垣市の障害福祉課に連絡してみるとか、この際、他の人にも参考になるようなことをやってみようかと思っていたのだが、通常の酸素屋さんとのやりとりで収まってしまった。さて、旅行の準備をしなくてはならない。

酸素を担いで石垣島(2)-----ちょっと予習 [旅行]

石垣島が沖縄県の南部にあたる島であることは知っている。しかし、沖縄本島から、400kmも離れていることはあまり意識していなかった。沖縄島よりも、ずっと台湾に近い。日本から見ればまさに辺境の島ではあるが、石垣島を含む八重山諸島の歴史は古い。2万年前の遺跡があり、日本最古の人骨が発見されている。早くから開けた土地なのである。

地理的には中国に近いのだが、古代に大陸との行き来は少なかったらしく、ネイティブのDNA類型は日本型に属している。東北・北海道などと同じく、本土よりも弥生人色が薄く縄文人色が濃いとされている。沖縄が早くから独自に開けた理由には、それが火山島でなく、珊瑚礁の島だったことが挙げられる。平地があり、農耕が出来たからだ。台湾は急峻な火山島であるため、ポルトガル人が来るまで誰も住まない島だった。台湾が間に挟まったことが、石垣島が中国から切り離された要因でもある。

石器時代から、営々と人々の暮らしが続く石垣島・八重山諸島ではあるが、その発展には困難がつきまとった。決定的だったのは砂鉄が取れなかったことだ。中国との交易が始まるまで、石器時代にとどまらざるを得なかった。沖縄本島が中国に朝貢するようになって、鉄器を手にした琉球王朝が石垣島をも支配するようになった。

沖縄本島も耕地面積は大きくない貧しい国だったのだが、そのまた植民地であるから、石垣島は悲惨だった。ペリーが日本に来航する前に立ち寄っているが、八重山諸島の人々は世界で最も貧しい人民の一つと観察している。

人々を苦しめたのは、悪名高い「人頭税」の制度だった。収穫や土地面積に対してではなく、全員一律に米と芭蕉布の物納重税が割り当てられた。自分の食い扶持が無くとも税のために働かされる。奴隷以下の労働だった。それがなんと、明治になっても、1901年まで続いたのであるから驚く。明治政府は石垣島を領土としてしか考えず、そこに暮らす人々のことなど念頭になかったのだ。

石垣の漁民が古くから尖閣にまで出漁していたなどという事を言って国威発揚したがる人もあるが、それはありえない。朝から晩まで農耕を強制されていたのだ。何日もかけて手漕ぎボートで400キロも出かける余裕はない。そもそも漁業という職業は、魚を「買う」人が出現して初めて成り立つものなのである。もちろん海洋王国として栄えたなどいうのは幻想だ。

苦しい生活の中にあって、独自の文化を築きあげてきた石垣島の人々は素晴らしい。古謡といわれる唄をずっと引き継いできた。アイヌのユーカラのように、アカハチの反乱などといった歴史を語るものでもある。これが沖縄民謡のもとになり、今も沖縄は音楽がとても盛んだ。安里屋ユンタは竹富島のものであり、歌手の夏川リミさんは、石垣島で育った。

冬でもきっと暖かい。水牛が歩いて浅い海を渡り、マングローブの林がある。広がる海はこの上なく透き通って、晴れれば満天の星空がとても美しいはずだ。

酸素を担いで石垣島(3)-----初めての「ツアー」 [旅行]

もともと団体行動が好きなほうではないのだが、酸素が必要になってからは、ツアーの強行日程はますます苦手になり、今までツアー旅行はしたことがなかった。今回は、2泊4食付で往復航空券よりも安いという魅力につられてツアーに参加してみた。といっても、ツアー行動は1日だけだ。

普通の旅行は、時刻表とか地図でいろいろと思案するのだが、ツアーの場合すべておまかせで、ナビで運転するようなことになる。こちらも気を抜いて、つい準備を怠ってしまう。出発からして、駅までのタクシーの中で、薬を忘れたことに気が付いて引き返した。他にも色々と忘れ物があった。やはり、チェックリストを作って確認することが必要だ。

石垣島へは直行便もあるのだが、このツアーでは那覇乗り継ぎになっていた。那覇もで3時間なのだけど、家から羽田までの時間を含めるとPOCの電池はあやうい。石垣島に着いてからホテルまでの時間もあるから、那覇での乗り継ぎに2時間とって、この間に昼食しながら充電するという目論見で、一応これには成功した。

羽田空港には障害者用のチェックインカウンターがあり、ここで手続きをするのだが、POCは不慣れで、マニュアルを引っ張り出して参照しながらで時間がかかることが多い。航空会社は極度にマニュアル主義で、それに従ってなにやらコンピュータに打ち込まなくてはならないことが多いらしい。セキュリティーチェックでも止められることが多いので、連絡しておいてくれるように頼む。今回は係員がセキュリティーまで付いてきてくれた。

格安ツアーだから、宿泊はビジネスホテルだ。いくらなんでもそれは味気ないのでオプションで、ホテル日航八重山にしてもらった。朝ごはんつきになるし、バスの発着点にもなっているので、時間と現地交通費のことを考えれば悪くはない。1日目は、ホテルまで行くだけだ。予定通り到着して、ホテルの近くにあるローカル居酒屋で夕食を取った。おいしかったし石垣の物価は安い。頼んであった酸素ボンベも無事に受け取ることができた。

ホテルでの一夜が明けて2日目がツアーだ。7時45分出発だから、朝寝坊の僕にはつらい。一日の強行日程が始まる。6時に起きて朝食を取り、ボンベを担いでバスに乗り込む、港まで行き、西表島までの船に乗る。到着したら、待っていた川舟に乗り換え、仲間川を遡って行く。何が何だかわからないうちに事が進んで行くようだ。なぜ仲間川に入るかというと、この川の両側はマングローブが生い茂っているからだ。

川の中まで根を広げた木が密生している。蛇やヒルがいることを想像すると、足を踏み入れるのも勇気がいる。平地であっても、ここを農地とするのは大変だ。人頭税の時代、人々は税を納めるために、ここで無理やり農耕させられた。ハブとマラリヤが大敵であり、全滅した村もあったと言う。

川岸の船着場に上陸すると、そこにはバスが待っており、島の北側にある由布島近くに行く。由布島は西表島に近接する小さな島で、400mの沖合い、浅い海を渡ったところにある。この島に水牛車で渡るのだ。渡りながら、御者のおじさんが三線の弾き語りをやってくれる。誰もが三線を弾くという土地柄を表している。しかし、うまい人ばかりではない。帰りの御者さんは、かなり音はずれだった。

由布島は蚊がいないため、戦後マラリアを恐れた人たちが移住して、かなりの人口にもなった。 学校や公民館もあったが、度々台風の被害にあって、撤退してしまい、廃村になっている。そこに、南方植物を茂らせ、水牛車で観光地にしたのだ。結構人気があり年間30万人が訪れる。レストランなどもあり、ツアーでは島を散策してここで食事をする。レストランに行くとテーブルにはすでに料理が並べられていた。沖縄風幕の内弁当といったものだ。

水牛車で西表島に戻り、バスで港まで行く。待つこともなく、今度は、竹富島への船に乗る。竹富島に着いたら、またバスが待っており、名所、星砂浜へ連れて行かれて、15分間星型の砂粒探しをした。次なるバスの行き先は旧市街とも言うべき赤瓦の住宅地区だ。赤いかわらを白い漆喰で固めた屋根をもち、石積みの塀が続く街並みだ。魔よけのシーサーもあちこちにある。この町並み見物も水牛車に乗ってめぐる。同じように御者さんの三線サービスがある。しかし、むしろ歩いて巡るほうが良い。

安里屋ユンタを何度も聞かされたのだが、全部「新安里屋ユンタ」だった。原曲に”嬉し恥ずかし 浮名を立てて”などと、ちょっと色町芸者風の歌詞をつけて、昭和の初めにヒットさせた有名な歌だが、原曲はそのような軽薄なものではない。竹富島の安里屋という屋号を持った家の娘、クヤマを歌ったものだ。クヤマは気立てもよく、親孝行なき者で、島一番の美人と評判も高かった。

当時の竹富島は400kmも離れた、沖縄本島の琉球王朝に隷属していた。琉球から派遣された役人である目差主が絶大な権力をもっており、貧しい島にあっては、目差主の現地妻として妾になることが唯一楽な暮らしが出来る道だった。

当然のごとく目差主はクヤマに目をつけて妾になれと言い寄った。しかし、クヤマは目差主の申し出をきっぱりと断ったのだ。ユンタというのは労働歌である。野良で働きながら、クヤマの快挙を讃え、島民の自尊心を歌い継いだのが本来の安里屋ユンタなのである。札束で引っぱたいて辺野古に米軍基地を作らせようとする政府に抵抗する沖縄県人の心意気と通じる。

布島からまた水牛車とバスに乗って港に帰る。連携が取れていて。待つなどということは一切なく高速船で石垣港に帰るのだ。石垣港に到着したのは5時半頃なのだが、ツアーはこれで終わらない。「あじ彩」というレストランでの八重島舞踊を見るディナーショーが付いているし、そのあとホテルでの島唄ライブもある。ツアーとは、実に盛りだくさんで忙しいものなのだ。

酸素を担いで石垣島(4)-----最終日の失敗 [旅行]

ホテルの隣にレストランシアター「あじ彩」があり、ここでのディナーと八重山舞踊鑑賞がツアーのパッケージに含まれている。メニューは決まっていて、豚肉(アグー)と野菜の焼き鍋だ。長いテーブルが並んでいて、宴会風に座る。ほとんどがツアー客だと見えた。舞踊のほうは、なかなか決め所がうまい踊り手でははあったが、年配の人ばかりだった。八重山舞踊というのは、ゆっくりした動きの日本舞踊に近いものだ。カチャーシーとかダンスを思い浮かべると印象が異なる。これには鑑賞眼も必要なようで、かなりの人が途中で退席してしまっていた。退屈としか感じられなかったのだろう。

ホテルのロビーで行われる島唄ライブの方は、ミヤギマモルという人で、石垣島のシンガーソングライターだという。歌声も三線もなかなかのもので、オリジナル曲「やいま」やthe boomの「島唄」などを聞かせてくれた。場所が狭いせいもあり、満席で立ち見の人もいた。人口45000人のところに、何人ものアーティストがいる。石垣の音楽文化の水準は極めて高いと言える。

これでやっとツアーの日程が終わり、大浴場で風呂に浸かって寝たのは、かなり夜更けだった。疲れたかもしれない。翌日は朝から体調不良におそわれた。ちょっと歩くだけで息切れする。しかし、予定通り、午後のフライトまで、川平(かびら)に行って、日本一とも世界一とも言われる美しい海を楽しむ事にした。川平までは、路線バスを使う。体調不良だと思考が働かない。1日券を買えば空港までにも使えて1000円で済んだのに、買いそびれてしまった。

川平は、確かに美しい海で、潮の流れがあるためか、水がすごく澄んでいる。晴れておればさらに素晴らしかったと思われるが、残念なことに天候も下り坂で、ピリピリ雨も降り出した。僕は初めてなのだが、連れ合いは45年前に来たことがあるという。まだ沖縄が「外国」であり、パスポートが要った時代だ。いまでは潮の流れが危険で遊泳禁止になっているが、そのころは泳げたそうだ。初めてへそ出し水着を着たとか言うが、二回目はなかったらしい。おばあちゃんにも、そんな時代があったのだ。

体調不良で、ここでの散策はきつかった。早々と引き返すことになった。ホテルで、昼食を取り、空港行きのバスまで、POCに充電しながら時間をつぶすことになった。酸素ボンベの空瓶を送り返す手続きもしなくてはならない。充電も完了し、そろそろバス乗り場に行こうと思ったら、バスが来てしまったのが見えた。あわててロビーから飛び出したのだが、「石垣空港」と書いたバスは、誰も待っていないホテルの玄関口を通り過ぎて行ってしまった。予定時刻の5分前だ。

これは困った。バスは1時間に1本くらいしかないから、これを逃したら飛行機に間に合わない。しかたなく、タクシーで行くことにした。タクシーに乗って出発したのだが、そこにまた「石垣空港」と書いたバスがやってきた。あわてて、タクシーに戻ってもらったが、手遅れで、今度は本当にバスは行ってしまった。

バスは空港と港を循環している。空港から来て、ホテルで止まり、港まで行ってまたホテルを通って空港に行くのだ。僕らが乗り損なったバスは、港へ行くところだった。僕の勘違いだ。バスが定刻前に出てしまうことはないはずだ。本土と違う景色を見すぎた。ここは沖縄だから乗客のいないバスはさっさと行くなどと考えたのはおかしい。体調不良は思考力の低下をもたらす。

まあ、いいか。タクシーの運転手さんから、石垣Uターン事情なども聞くことができた。石垣島から本土に出て行っても、結局戻ってくる人が多いそうだ。石垣は住みやすいのだ。年をとってから石垣に移住してくる人も多いそうだ。冬でも暖かい気候は確かに心地よい。夏も、風があるから極端に暑いということでもないらしい。結果的に石垣島は人口が増えている数少ない地方小都市になっている。

3日間はあっと言う間の旅だった。やはりツアーは忙しすぎる。石垣島はもっとゆっくり楽しみたい。夕方の飛行機に乗って1時間で那覇、乗り継いで3時間で羽田に着いた。飛行機に座っているうちに体調も回復してきた。羽田から空港バスにのれば、家の近くまで来てしまう。便利になったものだ。

(4)欲張ってカナディアンロッキー [太平洋横断]

太平洋横断の船に乗るためには、バンクーバーまで行かなくてはならない。どうせなら、カナディアンロッキーまで足を伸ばしたい。スキーが出来た頃には、一度はバンフの斜面を滑りたいと思っていた。今はもうスキーという体力はないが、美しい山々の景色は楽しめる。小さな子どもが文句なく可愛いのと同じで、山と湖の景色は文句なく美しい。

サンフランシスコからバンクーバーの行き道にカナディアンロッキーに立ち寄ろうと思う。国立公園に飛行場は作れないから、一番近い空港はカルガリーになる。まだ出かけるのは先のことなのだが、マイレッジで予約するなら早いめにしなければならない。調べてみるとカルガリーまでは十分席がある。しかし、カルガリーからバンクーバーまでの席がない。ローカル航空の便ならあるのだが、酸素を必要とする僕には使えない。それならばということで、陸路を考えてみた。カナダには鉄道があり、眺めがいいことで知られている。

カルガリーからロッキーまでの`150kmはどっちみち陸路だ。観光地をつなぐバスが出ていて、ジャスパーからバンクーバーには鉄道で行ける事になる。これも悪くない。料金は

Calggary------>Banff $57
Banff---->Lake Louise $26
Lake Louise ---->Jasper $26
Jasper ---- Vancouver $148

ということで、二人で$600になるから、そう安くはない。問題は酸素で、鉄道やバスの中で電源を使わせてもらえる可能性は低い。鉄道の発達した日本だって電源が使えるのは、まだ新幹線の一部だけだ。船の出港は夕方なのに、バンクーバーに着くのは早朝だというのも面白くない。大荷物では市内観光というわけにも行かないからだ。

そこで、レンタカーを使って車で行くことを考えた。レンタカーの方があちこちいける自由度がある。バンフ、レイクルイーズで遊んで、そのあとバンクーバーまで走るのだ。地図で見るとすぐ近くなのだが、カナダはスケールが大きい。測ると900kmある。東京から福岡くらいの距離だ。乗船には3時までに行かなくてはならないから、一日では無理だろう。途中で一泊するしかない。ま、それもいいか。バンクーバーに向かって走れるだけ走って、適当なモーテルでも見つけて泊まればいい。

カナダのレンタカーはそれほど高いものではない。僕は普通、アラモとかバジットといった安いレンタカーを使うことにしているので調べてみた。ところが、1日160ドルとか、とんでもなく高い。わかったことは、これは乗り捨て料金だからだ。同じ場所に戻せばぐっと安くなる。乗り捨てルールは会社によって異なる。webリサーチはやって見るもので、普段は高い目のHertzが乗り捨て無料だとわかった。4日間で$327.66だから途中一泊してもかなり安上がりになる。

一つ問題なのは、営業所の位置だ。バンクーバーの港にも営業所があるのだが、返却場所としては街中の営業所しか出てこない。500mばかり離れていて重い荷物があることを考えると微妙に遠い。とりあえず予約をしておいて、また調べることにしよう。レンタカーの値段は変動するから安く予約できる時にしておいたほうが良い。

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